高木豊はプロ初スタメンで江川卓から3三振 試合後、ミーティングが開かれ説教をくらった (2ページ目)
「あの時の大洋というのは、入団する前から惨憺たる状況だったんですよね。『なんで優勝できないんだ』とか、『なんで勝てないんだ』とかが悩みになってこない。それが当然だっていうような感じで飲み込まれていくんです。やっぱり『優勝したい』といった意識が芽生えたのは、90年以降じゃないですかね。
そもそも意識が変わったのは、(監督の)古葉竹識さんの3年契約が終わる89年頃だったでしょうか。それまで優勝なんて口先だけで、フロントの人たちもどうやったら優勝できるかなんて、これっぽっちも考えていなかった。シーズンが始まる前でも、優勝どころかAクラスも目標にできなかった。だって、メンバーが絶対的に足りないんですよ。たとえば、おいしいものを食べるにしても、調味料も大切ですけど、素材がやっぱり大事じゃないですか。調味料でごまかしは効きますよ。でも最終的に素材の味を生かしてやる料理が一番おいいじゃないですか。そういう素材が揃っていなかったということですよね」
高木は92年に契約交渉が難航し年俸調停を申し立てているが、お金の問題だけで揉めたわけではない。球団の姿勢についても言及し、企業努力もせずに他球団の選手の成績の良し悪しを比較して年俸を決めることに苛立ちを感じ、調停まで持ち込んだのだ。そういう点でいうと、80年代の江川率いる巨人は優勝か、できなくても優勝争いに絡んでいた。そんな状況を、高木は心底うらやましく思っていた。
【江川卓とのトークショー】
3歳違いの江川と高木は、他球団でありながらも仲がよかった。
「自分はすごく人懐っこかったので、江川さんにもホイホイ話しかけていました。当時、江川さんをいじる人なんていなかったのですが、僕は平気だった。敵チームですから、今ほど交流があるわけじゃなく、あいさつからの延長で『あの時の配球を教えてくださいよ』『いや、教えられないよ』といったたわいのない会話ですよ。
引退してからは、原(辰徳)の親父さんが亡くなった時に、葬式というかお別れ会に出たんですよね。うしろのほうで江川さんとふたりで立っている時に、何気なく『江川さんって講演とかしないんですか?』って聞いたら、『講演は苦手なんだよ』と答えるから、『じゃあトークショーは?』と聞くと、『トークショーかぁ。おまえとだったらやってもいいと』と。それで『じゃあ一緒にやりましょう』となって、何回かやったことはあります。でもうれしかったですよ。『おまえとだったらやってもいいよ』と言われた時は」
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