栗山英樹監督からの助言に「そんなことできるわけないでしょ」WBC準々決勝イタリア戦 伊藤大海が大谷翔平の招いたピンチで見事な火消し
第5回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で栗山英樹監督率いる侍ジャパンは、2009年以来14年ぶり3度目の優勝を果たした。世界一の軌跡を選手、首脳陣たちの証言とともに振り返ってみたい。
WBC準々決勝のイタリア戦でピンチを切り抜け大谷翔平(写真中央)らに迎えられる伊藤大海(写真右) photo by Jiji Press Photoこの記事に関連する写真を見る
【ダルビッシュの自主トレに参加】
2009年の春──11歳だった伊藤大海の記憶には、WBCの決勝で雄叫びを上げたダルビッシュ有の姿が刻みつけられている。
「僕は北海道で生まれ育ったので、ダルビッシュさんのことは子どもの頃からよく見ていました。ファイターズで活躍している姿も、WBCの決勝で最後、胴上げ投手になった時のことも、よく覚えています。ダルビッシュさんとは今回のWBC前、アメリカで自主トレを一緒にさせてもらいながら、朝から晩まで生活をともにさせてもらいました。
そこで感じたのは、ダルビッシュさんは何にでも意味を持たせている、ということ。無駄なく、意味のあることだけをやっている感じがしました。ダルビッシュさんの言葉は一つひとつが伝わりやすいし、考えている人の言葉ってすごく重みがあって、説得力もあります。しかも、自分の言葉で話してくれるので、僕の頭にスッと入ってくる話ばかりなんです。WBCではどんな役割を託されても、そのマウンドに相応しい自分でいなきゃいけないと思いました」
2009年のWBCで、経験のなかったクローザーを任されたダルビッシュの姿は、伊藤に勇気を与えた。WBCで伊藤が託されたのも、ほとんど経験のなかった中継ぎ。それも、主に先発と第2先発をつなぐ大事な役割だった。伊藤は初回からブルペンで肩をつくり、先発の球数を見ながら登板に備えていた。
「それが僕と宇田川(優希)の仕事でした。なんでも要員というか、先発ピッチャーの突然のアクシデントに備えたり、第2先発の前、先発の人がイニングを投げ切れなかった時の間を担う役割だったり......いろんなところをバックアップするということです。僕は右バッターに強くて、宇田川はフォークがあるので左バッターにいく、という感じはあったと思いますが、僕が先に行くケースが多くて、宇田川は大変だったと思います。僕が出て行ったあとは宇田川が準備を続けていましたから......宇田川が投げたのは1次ラウンドの2試合だけでしたが、準々決勝以降、ブルペンで誰より投げていたのは宇田川だったと思います」
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著者プロフィール
石田雄太 (いしだゆうた)
1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。