巨人のドラ1指名を喜べなかった篠塚和典が「ミスターに恥をかかせちゃいけない」と思った瞬間 監督退任時には「自分もやめます」
野球人生を変えた名将の言動(10)
篠塚和典が語る長嶋茂雄 前編
指導者との出会いが、アスリートの人生を大きく変える。卓越したバットコントロールと華麗なセカンドの守備で、1980年代前後の巨人の主力として活躍した篠塚和典氏は、長嶋茂雄監督との出会いが野球人生を変えたという。
インタビュー前編では長嶋監督と初めて会った時の印象、運命のドラフト会議、「伝説の伊東キャンプ」のエピソードなどを聞いた。
自宅で両親とともに取材を受ける、巨人に1位指名された銚子商時代の篠塚(中央)この記事に関連する写真を見る
【好きだった球団は「1番が阪神で、次が中日」】
――長嶋監督と初めて会った時の印象はどうでしたか?
篠塚和典(以下:篠塚) ドラフト会議後、家に挨拶に来ていただいたのが初対面でしたが、緊張して喋れなかったです。ただ見ているだけで、「一体何を言われるのかな」とミスターの目だけを見ていました。瞳の色が黒目や薄い茶色などではなく、モスグリーンだったんですよ。オーラも出ていましたね。
――会う前のイメージと違いましたか?
篠塚 イメージと同じでした。あれだけの大スターですし、僕らはミスターのやることなすことを見るのがとにかく楽しみで。グラウンドで練習している時も、ミスターが近くを走ったりしていると、ついつい目で追っていましたね。
――篠塚さんは長嶋監督の強い意志もあって、ドラフト会議で巨人から1位指名されました。巨人以外からのお誘いもあったのでは?
篠塚 ありましたが、僕の場合は高校2年生(銚子商)の秋に病気(肋膜炎)を患っていたので、各球団のスカウトもちょっと敬遠してるんじゃないかな、と思っていました。さらに3年時は甲子園にも出場できませんでしたし、そんなに体も大きくなかったので......。
それに、斉藤一之監督(銚子商)にも相談して、ノンプロの日本石油(現ENEOS)に行くことが決まっていて背番号をもらっていたんです。合宿にも行って練習にも少し参加したりしていましたし、日本石油に行くつもりでした。
――それでも巨人に入団されたのは、長嶋監督の存在が決め手でしたか?
篠塚 ドラフト会議の1週間前、斉藤監督のところに巨人から電話がかかってきたらしく、僕が呼ばれたんです。それで斉藤監督に「プロ野球はどこが好きだ?」と聞かれて。僕は藤田平(阪神)さんを目標にしてやっていましたし、「1番が阪神で、次が中日です」と言ったんですよ。
中日は高校の先輩の土屋正勝さんがいたので、「その次ぐらいが巨人かな」という感覚でした。そうしたら斉藤監督から、「実は、巨人が『指名する』って言ってきたんだよ」と明かされたんです。
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著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。