王貞治が思わずセーフティーバント。中日・中利夫はそこまで追い込んだ (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 まさにそのとおりだった。63年と65年、中さんはシーズン350刺殺というセ・リーグ記録を作っている(注)。外野手の刺殺はそのほとんどが外野フライを捕球したものなので、守備範囲が広いほど刺殺数は多い。それだけ俊足を生かし、ポジショニングもよかったと言えるわけだが、中さんの守備範囲の広さについて、後年、長嶋はこう述懐している(※)。

「あらかじめ、もうその落下点にいたっていう、最たる外野手であったんじゃないでしょうかねぇ。抜けた! と思ってね、二塁近くに行くとね、もうフォッと捕られてね、スタスタ、ベンチへ帰ってくるとかねぇ、へっへっへ。まあ非常に、がっかりしましてねぇ」

 取材に備え、あらためて長嶋のインタビュー映像を見てみると、中は憎たらしかった、という気持ちを苦笑で隠していることが実感できた。その様子を伝えると、中さんは急に真剣な表情になって、こちらの話が終わらないうちに答えた。

「でかい当たりがどこへくるか、だいたいわかってますから。長嶋さんに限らず、バッターの特徴は自然に頭に入ってきて、カウントによってこっちへくるか、あっちへいくか、ひとつ先を判断して守る位置を決めます」

 センターは投手が捕手に投げた球筋がはっきり見える。その球筋を目で追うことで打球判断が可能になる。バッターが振った瞬間、バットに当たる感じによって、打球の強弱、打球方向がなんとなくわかるのだという。

「練習を積んで、試合経験を積んで、ずーっと守ってると、なんとなくわかるんですけど、とにかくカウントによって全部違います。自分が打つときだって、2ストライクと3ボール1ストライクじゃ、狙い球、まったく変わりますからね」

 自然とバッティングの話に戻っていた。63年、打率が2割4分台に下降したあと、64年に三夫と改名した中さんは広角打法を習得。さらに暁生と改名した65年には打率が2割8分台まで上昇。「じつは縁起を担いだ」という改名の効果か、66年には長嶋、阪神の遠井吾郎、同僚の江藤慎一と首位打者を争う。同年は長嶋が獲ったが、中さんはリーグ3位の打率.322だった。

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