県トップの進学校から高卒でプロ入り。中日の監督まで務めたレジェンド (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 僕自身は78年、中学1年のときに初めて、中利夫という野球人を意識して見た。俊足巧打の外野手として活躍した現役時代は憶えていないのだが、その年、中さんが中日の監督に就任。球歴を見ると、何度も改名していて違和感を覚えた。本名が利夫で、三夫、暁生と変えている(84年から90年は登志雄に改名)。なぜそんなに? と思ったのだ。

 その一方、中さんが群馬・前橋市に生まれ、"マエタカ"こと県立前橋高からプロに入った事実は知らずにいた。前橋高といえば、県内最古の歴史ある高校で全国屈指の進学校ながら、78年春のセンバツ甲子園大会、完全試合を達成した松本稔がすぐに思い出される。

 また、同じく投手で、日本大を経て巨人に入団、[8時半の男]と呼ばれた宮田征典(ゆきのり)もマエタカ出身。希少ながらも球史に名を刻む人材が輩出しているわけだが、そのなかで中さんが残した実績は飛び抜けている。

 中日一筋18年で1877試合に出場して通算1820安打、347盗塁。タイトルは首位打者を1回、盗塁王を1回獲得し、歴代6位の81三塁打を記録している。さらにベストナインに5回選出され、オールスター出場も6回ある。進学校から直接のプロ入りで、これほど輝かしい実績を積み上げられるものだろうか。

 まして中さんの場合、東大合格圏内の学力を持っていたというから、ハイレベルな文武両道ぶりに感服するしかない──。果たして、マエタカの秀才はいかにして名選手になり得たのか。興味津々で愛知・名古屋市内のご自宅を訪ねた。

 夫人に案内されて応接間に入ると、中さんがソファに腰掛けて待っていた。オールバックの白髪にふちなしの眼鏡をかけた風貌は76歳(当時)という年相応に見える反面、キリッとした細い目と引き締まった口元は、写真で見た現役時代の印象と変わらない。挨拶を交わした後、「今日、東京から?」と中さんは言った。低く張りのある声が静かな室内に響いた。 

 ソファに座って向き合って間もなく、僕は父の話を切り出した。途端に中さんは「えっ?」と驚いて笑い、生まれ年を確認して「じゃあ、僕より1年下だからやってますね。確かにやってます」と言った。度肝を抜かれた父とは正反対、中さんにすれば楽勝した試合。特に記憶には残っていないはず、と予想したとおり、60年も昔の話はそれ以上、続かなかった。

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