2021.04.28

広岡監督は優秀だが人間性は…。山崎裕之はヘルメットをブン投げた

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「勝つためにはどうしなきゃいけないかということを、西武に意識付けたのは広岡さんだと思います。勝つ野球。団体競技として、どう相手と戦って勝っていくか。それが完全に選手に理解されて取り組まないと、本当の強いチームにはなれません。

 もちろん、いい選手が揃っていることも勝つための条件だけれども、広岡さんは徹底的に教え込みましたよね。ある意味、洗脳させるぐらいのところまで。でも、僕はそれを厳しいとは思わなかった。逆に、プロだから当たり前だろう、というような思いがありました」

 たとえば、無死二塁の場面。ここでもう1点取れば勝てるというとき、4番の田淵幸一でも右方向へ転がす。年間に数回でも、それができるのが勝つ野球だった。そして82年、当時は前期・後期制のパ・リーグで西武は前期優勝。後期は3位となるも、後期優勝の日本ハムをプレーオフで破ってリーグ制覇。日本シリーズでは4勝2敗で中日を下した。

 この年、山崎さんは打率2割4分台で、73年以来の1ケタ本塁打と不振だった。ところが、契約更改で思わぬ評価を受けた。

「こんなに上げてくれるの? と思いました。打率は全然よくないのに、『つなぎ役をやっていたから、球団の査定はいちばんポイントが高い』と言われたんです。ロッテ時代にはなかったことで、あらためて、団体競技のなかのプレーを認めてもらえたなと。たぶん監督が広岡さんだったから、余計、現場の査定とフロントの査定と、打ち合わせはきっちりしていたんでしょうね」

 翌83年9月18日、西武球場で行なわれたロッテ戦。山崎さんはプロ19年目で通算2000本安打を達成する。場面は3回、無死一塁。普段なら送りバントのサインが出るところ、この打席は出ていなかった。

「でも、あのときも、私は右方向に打とうと思ってました。つなぎ役ですからね」