2020.11.11

一杯のカレーが運命の始まり。
群馬の中学生は「根本陸夫の右腕」になった

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第19回
証言者・浦田直治(1)

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 1950年、秋の明治神宮野球場。東京六大学野球の秋季リーグ戦、試合開始前のことである。「球都」と呼ばれる群馬・桐生市からやって来た中学生の一行が、当時、法政大でプレーする根本陸夫を訪ねた。

 一行は、桐生市立境野中の野球部員。主将の浦田直治(元・西鉄)は後年、プロ入りして「根本の右腕」と称されるのだが、この時が最初の出会いだった。それにしても、なぜ、群馬の中学生が根本に会いに行ったのか──。スカウト部長、球団本部長として、長年、西武の新人補強に尽力した浦田に聞く。

西武入団が決まった松坂大輔(写真左)と握手する当時球団本部長の浦田直治氏「野球部の監督が日大で野球をやっていまして、根本さんの2年先輩でした。それで先生が、キャプテンの僕に言ったんです。『俺の後輩に根本っていう選手がいた。今は法政大学に変わって、キャッチャーをしている。俺が根本に頼むから、みんなを連れて六大学を見に行って、野球の勉強をしてきなさい』と」

 根本宛に手紙を書くよう命じられた浦田は、野球部全員で行くこと、試合観戦を希望することなどを記して投函した。ただ、根本という選手について、先生は何も教えてくれなかった。日本大から法政大に移った事情も知らされなかったそうだが、本来ならあり得ない移籍。浦田の話を続ける前に、根本の球歴、事の次第と背景を明らかにしておきたい。

 旧制茨城中(現・茨城高)で本格的に野球を始めた根本は、1年時からレギュラーになるほど有能な選手だった。反面、授業をサボってばかりで3回も落第し、退学処分。旧制日大三中(現・日大三高)に転校する。その野球部で"終生の師"となる監督、藤田省三(のちに法政大監督、近鉄初代監督)に出会う。藤田夫人と根本の母親が遠縁だったことで選んだ道だった。

 日大三中では、"終生の友"となる左腕の関根潤三(元・近鉄ほか)とバッテリーを組んだ。卒業後、関根は法政大に進学したが、戦時中、根本は短期間ながら軍隊生活を体験。終戦後の46年に日大に進学し、東都大学リーグで野球を再開した。