門田博光が本気で探す後継者。「王貞治を超えるバッターを育てたい」 (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 その後、20名ほどの選手が集まり、大阪ホークスドリームとして関西独立リーグに参加。門田は総監督(のちに監督)としてチームを指揮し、選手への指導も積極的に行なった。体の不調を抱えていた時期ではあったが、久しぶりに野球にのめり込んだ日常は、門田にとってやはり幸せな時間だった。

 ただ、この時も、のちに臨時コーチとして社会人チームを指導した時期も含め、門田の思いを満たす選手との出会いに恵まれることはなかった。

「教える前は、オレの目に留まったヤツをマンツーマンで鍛えたら、誰でもプロに行かせられる自信はあったんや。『オレがやれたんやからできる』『オレの哲学は通じるはずや』と。でも、そうやなかった。そのうち徐々に自分の野球哲学を疑い始めて、指導するのが怖くなった時期もあったな」

 現実に直面しながらも、一旦スイッチが入った門田は、自らの財産を託す選手を探し求めた。

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 2009年の秋、自宅のテレビでオリックス戦の中継を見ていると、門田の目を奪う選手が現れた。その年の夏にプロ初ホームランを放ち、売り出し中の岡田貴弘(T-岡田)だった。翌日には車を飛ばし京セラドームに向かうと、当時監督だった大石大二郎をつかまえ、こうストレートに言った。

「55番(T-岡田)をオレに見させてくれんか」

 門田の意図を察した大石だったが、すでにそのシーズン限りでの退団が決まっており、話は広がらなかった。

 こんなこともあった。5、6年前のある夜、門田から電話があり、阪神の東京遠征時の宿泊先を聞かれた。何事かと思いながらホテル名を告げると、「ありがとさん」と言って電話は切れた。

 後日その話を聞くと、阪神のある選手のバッティングが気になっていて、門田によると「1つ、2つ伝えたいポイントがあった」という。そこで南海時代のチームメイトで、当時阪神のコーチをしていた黒田正宏に連絡を入れるため、宿泊先を聞いてきたのだった。

「『鳥谷(敬)とちょっと話できんか』と黒田に言うたけど、進まんかった。そういうのは難しいらしいな」

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