「なんであんなに叩かれてるの?」と心配されるDeNA倉本寿彦の苦闘 (2ページ目)

  • 村瀬秀信●取材・文 text by Murase Hidenobu


 昨年、宜野湾の練習場で倉本はいつまでもバットを振り続けていた。現役時代に、狂気的ともいうべき練習を自らに課し続けてきた坪井智哉打撃コーチですら、「倉本は練習するね。俺が言うんだからすごいよ。目の色が違う」なんてことを言う。

「プロでやる以上、絶対に弱いところは見せたくない。弱みを見せた途端につけこまれますから」

 ルーキーの年に言っていたそんな言葉が頭をよぎった。これまで倉本から弱音のたぐいはほとんど聞いたことがない。15年、ルーキーとして開幕一軍出場を果たし、翌年には3割近い打率を残してショートのレギュラーに定着。17年には"憧れの人"石井琢朗以来のフルイニング出場と、無類の勝負強さで"恐怖の9番打者"と恐れられ、日本シリーズ進出に大きく貢献した。

 実際は、その3年間にしても苦しい時間の連続だった。打撃フォームがプロの投手に合わず変更を余儀なくされた時も、極度の不振で監督に二軍落ちを直訴する手前まで追い詰められた時も、倉本は喜怒哀楽を表に出そうとはしなかった。苦しみや哀しさ、やりきれなさ。サヨナラヒットを打った時ですら、喜びの感情を極力控えようとする。それは「弱みを見せたくない」という自分の中での誓いに倣(なら)ってのことだったのか。

「僕は小さな頃から決して実力が抜きん出た選手でも、華のある選手でもありませんでしたからね。周りには凄い選手たちがたくさんいて、『その人たちに負けたくない』『どうすれば試合に出られるか』ということだけを考えてやってきました。その考えはプロに入った今もずっと変わりがありません」

 横浜高校時代の恩師、渡辺元智監督は倉本がドラフト指名された時、「まさか倉本がプロに行くとは思わなかった」と正直な感想を漏らしている。中学時代に指導した寒川シニアの監督も、横浜高校に進学したいという倉本に「無理だ」と反対した。実際、入学後すぐに、倉本はあまりの練習の厳しさとレベルの違いに打ちのめされ、野球部を辞めようとしたことがあった。

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