松沼兄が告白。「西武ドラフト外入団」の真実と「空白の一日」との関係 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Kyodo News

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「大学のセレクションも、最初は内野手として行きましたから。でも、東洋大に行って周りを見てすぐ『無理だな』って思った。自分では自信のあったバッティングが、実際には高校生レベルでしかないと気づかされました。それで東洋でピッチャーになって、僕が2年の時に就任した監督の高橋昭雄さんがやけに買ってくれて。かなり投げさせてもらいましたけど、実際に自信を持って投げられるようになったのは東京ガスに入って3年目、4年目からですよ」

一方で4つ年下の弟・雅之は中学時代、仕方なく野球部に入るぐらい好きではなかったのに、木内に誘われて入った取手二高では1年時からエース。兄弟ともに実力はあったが、いずれもあとづけのように投手になっていた。

 4年目の78年夏、博久は都市対抗に出場すると1回戦の丸善石油戦で毎回の17奪三振を記録。平松政次(日本石油)が持つ16奪三振の大会記録を塗り替える。さらに秋の日本選手権では、4試合連続完投勝利を挙げて11月5日の決勝に進出。拓銀に0対1で惜敗したものの、一気にプロの評価を上げた。だが試合後、博久は「仮にドラフトで指名されてもプロ入りする気はない」とコメントした。

 同じ日、東洋大の弟・雅之は明治神宮野球大会の準決勝、東海大戦に先発。2年生の原辰徳にソロ本塁打を打たれるも、延長11回をひとりで投げ切ってチームは3対2で勝利。試合後には「兄も頑張っているし、負けられません。今日投げたから、明日はもっと調子がいいと思いますよ」とコメントしている。

 結局、翌日の同志社大との決勝戦では敗れたが、東洋大での雅之は2年時の76年秋季リーグ戦で8勝を挙げ、チームのリーグ初優勝に大貢献した本格派右腕として評価を上げた。77年から2年連続で日米大学野球選手権大会の代表に選出され、78年は同大会で3勝を挙げて日本の優勝に貢献。リーグ戦通算39勝を挙げ、防御率1.84、376奪三振を記録し、最高殊勲選手2回、最優秀投手3回、ベストナインにも3回選ばれた。ドラフトにかかれば1位指名は確実だった。兄もその実力を認めていた。

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