伊東勤がイヤだった「秘蔵っ子」の呼称。「森祇晶監督と衝突もあった」 (4ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――これはみなさんに聞いているのですが、あらためて1992年、そして1993年の日本シリーズを振り返ってみると、どのような印象をお持ちですか?

伊東 さっきも言ったように、球界の世代交代が進んだのがあの日本シリーズだったのではないかと思います。僕にとっては現役時代、最後に日本一になったのが1992年でした。翌1993年にはヤクルトの強さを感じることになったし、1997年のヤクルト、1998年の横浜との日本シリーズでは、まったく別のチームでシリーズを戦ったという感じです。

――スワローズナインに話を聞いていると、たとえば広澤克実選手は「伊東のリードには特徴がなく、つかみどころがなかった」と話していました。スワローズナインにとって、伊東さんの存在はとても脅威だったように思います。

伊東「相手が勝手に脅威を感じて、意識過剰になる」というのは、キャッチャーの醍醐味のひとつです。本当は簡単で単純なのに、勝手に相手は難しく考えてしまう。それはやっぱり、キャッチャーならではの魅力ですね。実際は僕と対戦するのではなく、ピッチャーと戦わなければいけないのに、ピッチャーへの意識が半減し、キャッチャーも意識しなければならなくなる。だから僕は今でも、若いキャッチャーには「相手バッターから警戒されるキャッチャーになれ」って指導しているんです。

――いずれにしても、1992年、1993年はライオンズ・伊東勤、スワローズ・古田敦也という、ともに一流同士のキャッチャーの駆け引きも忘れられないシリーズとなりました。

伊東 僕も、こうして昔のことを思い出すことができてよかったです。本当に、あの2年間のシリーズは見どころも多かったし、勝つことが本当に難しいシリーズでしたからね。

(古田敦也の証言につづく)

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