伊東勤がイヤだった「秘蔵っ子」の呼称。「森祇晶監督と衝突もあった」 (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

【「僕と古田はまったくタイプの違うキャッチャー」】

――翌1993年も再び、スワローズとの日本シリーズとなりました。2年連続の激突でしたが、この頃にはスワローズに対する意識の変化は芽生えていましたか?

伊東 前年と比べると、心の余裕のようなものは薄まっていましたね。2年連続でセ・リーグを制覇したチームですし、自分たちも連覇の大変さはよく理解していましたから。それに、前年シリーズでのヤクルトの粘りは目の当たりにしていたし、「さらに力をつけてきたんだな」という思いは抱いていました。

――この年もまた、「伊東対古田」とか「伊東と古田の代理戦争」というフレーズで、スワローズ・古田敦也選手との比較記事が数多く見られました。

伊東 僕も古田も、お互いにキャッチャー出身監督の下でプレーしていたので、「秘蔵っ子」とか「教え子」というフレーズを何度も目にしましたけど、僕はすごくイヤでした。たぶん、古田も同じ思いじゃないのかな? 世間では「師弟愛」のように思われていたかもしれないけど、実際には森(祇晶)監督との衝突もありましたし、そんな単純な話ではないんですけどね(笑)。

――伊東さんから見た古田選手はどのようなキャッチャーに見えましたか?

伊東 どちらかと言えば、僕は「ボールを散らして抑えるタイプ」のキャッチャーでした。でも、古田の場合は「ストライクをどんどん投げさせるタイプ」のキャッチャーだったと思います。なるべく、無駄な球を投げさせずに、いいと思うボールをどんどん使っていく。谷繫(元信)も古田と同じようなタイプだったので、これはDH制のないセ・リーグ捕手の特徴なのかもしれないですが。

――1993年はスワローズが雪辱を果たして日本一となりました。この結果については、どのように受け止めていますか?

伊東 ヤクルトは間違いなく強くなりましたね。それまでは西武が歴史を作ってきていたけれど、この年からはヤクルトが歴史を作り始めていきました。よく、「新旧交代」という言葉が使われますけど、まさにこの時から西武とヤクルトが新旧交代したのかもしれない。我々が歩んできた道をヤクルトが歩み始めた。今から見ると、そういうことが言えると思います。

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