2019.04.23

ベテラン平野謙が愛のムチ。
若き清原和博に「あいさつに来い」

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――「感覚のズレ」とは、具体的にはどのようなことでしょうか? 1992年も1993年も、ゴールデングラブ賞を獲得しています。まだまだ衰えていたようには思えませんが......。

平野 いや、むしろ逆ですね。守備のほうの衰えが顕著でした。打つほうは、もともとあまり好きじゃなかったし、こだわりもなかったので、「打てても、打てなくてもどうでもいいや」って思っていたんです(笑)。感覚の差が出始めたのは、まずは守備からでした。たとえば、「これは補殺できるぞ」と思った送球がアウトにならなかったり、「これは捕れるぞ」という打球が捕れなかったり、そういうことが少しずつ出始めるんだよね。

――当時はまったく、そんなことを感じさせないように見えました。

平野 そうですね。それは公にはしていなかったけど、実は内緒で少しだけグローブを大きくして、「道具でカバーしよう」と考えていました。この頃は、目も肩も脚力も衰えつつあったけど、特にフットワークが悪くなってきたので、それまでよりも少し前に守るようになっていました。

選手それぞれが、自分の役割をきちんと理解していた

――ライオンズの黄金時代には「二番・ライト」という固定した役割を与えられていましたが、どんな意識を持ってこの役割を演じていたのですか?

平野 当時のライオンズは、それぞれの役割が明確でしたよね。一番・辻(発彦)が塁に出て、二番の僕が送って、秋山(幸二)、清原(和博)、(オレステス・)デストラーデのクリーンアップで得点を稼ぐ。そういう役割がありました。僕が意識していたのは、そんなに難しいことじゃなくて、「一番が出塁すれば、きちんと送ろう」「アウトカウントによってはエンドランもあるぞ」ということ。あるいは、「一番が出塁しなければ、自分が何とか塁に出よう」ぐらいの意識でした。

現在はBCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスで監督を務める平野氏 photo by Hasegawa Shoichi――チャンスメイクをした上で、強力クリーンアップにつなげようという意識が強かったんですね。

平野 確かにそうですね。三番、四番、五番が強固だったので、一番、二番の役割も明確だったんだと思います。ただ、結果的にあの頃のライオンズは強かったけど、自分が二番でレギュラーだったんだから、決して「黄金時代だった」とは言えないと思いますけどね(笑)。決して謙遜なんかじゃなくて、本当にそう思うんですよ。