引退発表の井口資仁が、少年野球からMLBまで貫いた「超マイペース」 (2ページ目)

  • 杉浦大介●文 text by Sugiura Daisuke
  • photo by Getty Images

 フィールド上で誇示した適応能力と共に、筆者の取材の中で記憶に残っているのは、井口がクラブハウスでも"自分らしさ"を貫いていたことだ。メジャーリーグに来た他の多くの日本人選手のように、少しでも早くチームに馴染もうと躍起になっているようには見えなかった。いい意味でビジネスライクに、淡々と自分の仕事をこなしていた印象がある。

 言葉で言ってしまえばシンプルだが、異国の新たな環境の中での"割り切り"は簡単ではなく、その上で結果を出すのはもっと難しい。しかし持ち前の"強心臓"で渡米直後にそれをやり遂げた井口の姿に、少年時代の記憶があらためて鮮明に蘇った。

 筆者は井口と同じ東京都の田無市(現在の西東京市)出身で、小学生時代は「ビクトリー」という地元の軟式少年野球チームでプレーした。年齢は井口が1つ上だったこともあって、親しい友人関係だったわけではない。しかし、当時キャッチャーだった井口と、1学年下でチームのエースピッチャーだった筆者が、バッテリーを組ませてもらったことが何度かある。

 未成熟な小学生同士のゲームの中でも、類まれな井口の勝負強さには驚嘆させられた。井口が中心となった1986年のビクトリーは、小さな田無市の代表として、初めて東京都学童軟式野球大会でベスト4に進出。都の王者を決める大会は接戦の連続になったが、終盤イニングや延長戦などで、決まって快打を飛ばしたのが井口だった。

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