「期待はずれのドラフト1位」は、
なぜイタリア料理のシェフになったか

  • 取材・文:元永知宏 Text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News


■新しい球団でようやく力を発揮する■

──94年のオフにはトレード話が持ち上がり、イチロー選手のいるオリックス・ブルーウェーブ(現・バファローズ)に移籍します。「期待はずれ」の烙印を押されたまま神戸に移りましたが、翌95年のプロ野球は仰木彬監督のオリックスが主役となり、リーグ優勝を果たしました。

「オリックスに移って、その自由さに驚きました。『なんだ? これでもいいのか』と拍子抜けするくらい。選手にはみんな個性があり、"やらされる練習"はひとつもなくて、ひとりひとりがやるべきことを理解している集団でしたね」

──水尾さんは移籍1年目の95年にプロ初勝利。97年にはセットアッパーとして68試合に登板し、1勝2敗2セーブ、防御率2・26の好成績を収めました。98年は55試合に登板し、3勝0敗、防御率1・89。ようやく実力を発揮できたのはなぜでしょうか。

「私がいい成績を残せたのは仰木さんのおかげだと思います。ベンチの選手全員を戦力と考え、チャンスを与えようとする。二軍から上がってきたばかりの選手をスタメンで起用するのは勇気がいることだと思います。でも、それをスパッとやるのが仰木さんでした」

──その後、9試合の登板に終わった2000年オフに戦力外通告を受け、西武ライオンズに移籍しました。

「東尾修監督に拾ってもらう形で西武のユニフォームを着ましたが、勝利最優先のチームだったのでやりやすかったですね。ただ私は腰痛を抱えながら、だましだまし投げていたために、首にしびれが出るようになっていました」

──移籍1年目の01年に48試合(2勝1敗、防御率3・99)、02年には35試合(0勝0敗、防御率1・80)に登板しました。しかし、03年は2試合しか投げられず、2度目の戦力外を通告されます。

「もう35歳でした。痛みはあちこちにありましたが、それでも、00年シーズンの最後にはきちんと投げられていたので、『まだまだできる』と思い、いくつかの球団のテストを受けたのです。でも『いいボールを投げてるな』と言われたあと、決まって『何歳になった?』という話になるんですよ。結局、日本には採用してくれるところがなく......アメリカに渡ることを決意しました」

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