「期待はずれのドラフト1位」は、なぜイタリア料理のシェフになったか (2ページ目)

  • 取材・文:元永知宏 Text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News


──90年のドラフト1位には、長谷川滋利投手(立命館大→オリックス)、岡林洋一投手(専修大→ヤクルト)といった即戦力もいましたね。

「私はプロ入り直前に腰を痛めていたので、入団後はそれを完治させることに専念するはずでした。ところがトレーニングコーチには『お前、体が弱いらしいな』と言われ、患部にしびれがあることを伝えても、『鍛えれば治るから』と言われる始末。腰は年々悪化し、ほかにも故障が続きました」

──プロ1年目の91年は一軍登板なし。92年は0勝3敗、93年は0勝1敗、94年も0勝1敗。鳴り物入りのドラフト1位なのに、さっぱり勝てません。

「故障の影響もあって、思うように投げられない日々でした。そんなとき、監督にサイドスローに転向しろと言われたのです。当時の横浜は監督の意向が絶対。逆らったら終わりです。でも、私はうなずくことができなかった。指示に従ってサイドスローに変えれば試合に出るチャンスは増えたでしょう。でも、それを拒否したのは、自分が後悔すると思ったからです」

──監督に背いたことで、どんな扱いをされましたか?

「二軍でも練習をさせてもらえなくなりました。練習メンバーからも外され、ブルペンでピッチングをすることもできない。私のボールを受けてくれるキャッチャーは誰もいません。全体練習の間はひとりでウェイトトレーニングをして、ほかの選手が引き上げてからバッテリーコーチに『受けてください』とお願いしました。はじめは『お前といると、上からにらまれるから嫌だ』と言われましたが、それでも頼み続けて、やっとピッチング練習に付き合ってもらえるようになったのです」

──どん底から浮上するきっかけは?

「そのとき、バッテリーコーチに『力任せに投げるのはやめろ。腰が痛くて脚が動かないから、動かないなりに、どうやったらいいボールが投げられるか考えろ』と言われ、イチからピッチングフォームをつくり直したのです」

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