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【MLB日本人選手列伝】佐々木主浩:クローザーとしてマリナーズ最盛期に鮮烈な記憶を残した「大魔神」 (2ページ目)

  • 文/生島 淳 text by Ikushima Jun

【「諸刃の剣」の濃密なメジャー4年間】

 そして佐々木が大魔神としての真骨頂を発揮したのは、イチローが移籍してきた2001年のシーズンだった。

 この年、マリナーズはメジャーリーグ記録に並ぶシーズン116勝を挙げた。この年は開幕前にホセ・メサがチームから放出されていたこともあり、佐々木はクローザーの地位を約束されていたが、とにかくマリナーズが強いので、登板機会が多かった。前半戦だけで29セーブを挙げ、地元シアトルで行なわれたオールスターゲームのメンバーにも選出された。2年目で内容が向上した理由は、経験が大きかったと話している。

「1年目は本当に余裕がなくて、いっぱいいっぱいでした。1年目37セーブを挙げて、メジャーリーグでの戦い方がわかってきたというのが大きかったかな」

 チームは116勝に到達し、佐々木も47セーブをマークする。ただし、勝ち過ぎた弊害があったと佐々木は振り返る。

「リリーフ陣が疲れていたのでプレーオフまで調整させてくれと、監督のルー(ピネラ)に言いにいったら、ダメだと言われました(笑)。監督も記録を残したかったんでしょうね」

 おそらく、このシーズンはマリナーズが最もワールドシリーズに近づいたシーズンだったが、リーグチャンピオンシップシリーズでニューヨーク・ヤンキースに敗れてしまう。佐々木自身も、1勝2敗で迎えたヤンキー・スタジアムでの第4戦でアルフォンソ・ソリアーノにサヨナラ本塁打を喫してしまう。

「ウチも強かったけど、あの年はヤンキースが強かったな。(デレク・)ジーターがいて、キャッチャーは(ホルヘ・)ポサダで、センターにはバーニー(・ウィリアムズ)がいて......。残念だったけどね」

 佐々木は2002年もすばらしいシーズンを送った。マリナーズはあと一歩、地区優勝に手が届かなかったが(次にポストシーズンに進出するのは2022年まで待たなければならなかった)、佐々木自身は37セーブをマークした。また、メジャー史上最速となる160試合目での通算100セーブに到達している。クローザーという経験が必要なポジションを任され、充実期を迎えていたことが分かる。

 もったいなかったのは、ここからだ。ケガの影響が出てきており、シーズンオフに「ねずみ」と呼ばれる遊離軟骨除去の手術を受け、2003年のシーズンは初登板でセーブに失敗し、故障者リスト入り。その後も、自宅でスーツケースを運んでいた時に転倒して2カ月ほどの戦線離脱。その間にクローザーを長谷川滋利が務め、その座に復帰することはなかった。

 本来は2004年まで契約が残っていたが、「日本で家族と一緒に暮らしたい」とマリナーズに伝え、球団もそれを了承。自由契約となって古巣の横浜へ帰った。

 プライムタイムは2000年から2002年の3年間だったが、この時期はマリナーズの充実期でもあった。記憶に残るチームを支えたのは、大魔神・佐々木主浩だった。

【Profile】ささき・かずひろ/1968年2月22日生まれ、宮城県出身。東北高(宮城)−東北福祉大。1989年NPBドラフト1位(横浜大洋)。1999年12月にシアトル・マリナーズと契約。2004年2月に横浜と契約して日本球界に復帰。
●NPB所属歴(12年):横浜大洋(1990〜99/横浜93〜)―横浜(2004〜05)
●NPB通算成績:43勝38敗252セーブ(439試合)/防御率2.41/投球回627.2/奪三振851
●MLB所属歴(4年):シアトル・マリナーズ(ア/2000〜03) *ア=アメリカン・リーグ
●MLB通算成績:7勝16敗129セーブ(228試合)/防御率3.14/投球回223.1/奪三振242
●MLBタイトル受賞&偉業歴:ア・リーグ新人王(2000)、オールスター出場2回(2001、02)

著者プロフィール

  • 生島 淳

    生島 淳 (いくしま・じゅん)

    スポーツジャーナリスト。1967年宮城県気仙沼市生まれ。早稲田大学卒業後、博報堂に入社。勤務しながら執筆を始め、1999年に独立。ラグビーW杯、五輪ともに7度の取材経験を誇る一方、歌舞伎、講談では神田伯山など、伝統芸能の原稿も手掛ける。最新刊に「箱根駅伝に魅せられて」(角川新書)。その他に「箱根駅伝ナイン・ストーリーズ」(文春文庫)、「エディー・ジョーンズとの対話 コーチングとは信じること」(文藝春秋)など。Xアカウント @meganedo

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