2002年7月7日。田中将大が生まれ変わった「七夕の敗戦」のこと (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Getty Images

 中学卒業後、田中は駒大苫小牧で北海道民の夢を背負い、甲子園優勝を経験。楽天では東日本大震災の被害を受けた東北のシンボルとして地元民の希望を担い、日本一を達成。そして今は、日本ファンの思い、日本野球のプライドを背負い、メジャーリーグの舞台で戦い続けている。

 背負うものはどんどん大きくなり、重くなっているが、田中のやるべきことは変わらない。

 宝塚ボーイズの監督である奥村幸治は、田中の変化を中学2年夏の段階よりひと足早く感じていたという。奥村曰く、それはキャッチャーからピッチャーもやるようになった1年夏からだった。

「ピッチャーとして試合を任せると、すごく責任感の強い子だというのがわかってきたんです。任されたことはきっちり応えようとするし、そのための準備もしっかりできる。もともと、のんびりした性格の子でしたが、こと野球になると責任を背負える人間だというのがわかった。こういう選手は信頼できますし、そのとき結果が出なくても、経験を必ず次に生かす。そこに気づいたとき、この選手は伸びると思いました」

 奥村自身、現役時代は投手としてプロを目指しながら、オリックス、阪神、西武でバッティング投手を務めていた経験を持つ。トップレベルの野球を肌で感じてきた奥村は、なにより一流選手たちの取り組み方、意識といった部分に凄みを感じてきた。

 のちに少年野球の指導をスタートさせると、技術よりもその部分に力を込めて伝えてきた。田中も宝塚ボーイズでの3年間で、いくつもの教えを受けた。

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