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明石商・狭間監督がマイナスから目指した
甲子園「初日で辞めようと思った」 (2ページ目)

  • 沢井史●文 text by Sawai Fumi
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

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 明徳義塾高校の馬淵史郎監督からも「こんなところになかなか指導者は来てくれないけれど、来てくれるならありがたい」と言われた。狭間は一念発起し、未踏の地・高知へと赴くことになった。

 朝6時前に起床し、全校生徒との朝礼から1日が始まる。午前の授業が終わると、午後1時半から練習が始まるためグラウンドに出向く。4時になると、今度は中学生の指導にあたる。その後、高校の部員が夜間練習を始めるため、夜遅くまでつきっきりで指導することもあった。

 1993年からは明徳義塾中学の軟式野球部の監督に就任。その傍らで、これまでどおり高校の馬淵監督の下でコーチも務めた。

 明徳といえば、人里離れた山のなかに校舎、グラウンド、寮があり、携帯電話は禁止、テレビも限られた時間しか見ることができない。まさに"野球漬け"の生活である。そんな地に覚悟を決めてやってきた選手たちに、狭間は真摯に向き合った。

「夜にラーメンを食べさせながら悩みを聞いたりしてね。24時間ずっと一緒にいたら、子どもの性格はすぐにわかるんです。でも、そこで馴れ合いになったらダメ。いま、選手との距離感を気にしすぎて友達みたいになっている指導者がいるでしょ。それはちょっと違うと思うんです。怒るときはビシッと怒らないといけないし、褒める時はしっかり褒める。もちろん、一人ひとり性格が違うので、みんな同じ接し方をしてもいけない。それぞれの性格を見極めて、いかに接することができるかだと思いますね」

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