テリー伊藤が語る『ダンス甲子園』誕生秘話。制服を着る条件にはこだわりがあった
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テリー伊藤 インタビュー後編
1985年、それまでのテレビ界の常識を覆す革命的なバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』がスタートした。既存のタレントではない素人を積極的に起用し、その人たちの成長の記録などを見せていくドキュメントバラエティを生み出すなど、現代では当たり前となっている番組作りの手法のほとんどが、この『元気が出るテレビ!!』で作られたと言われる。
その総合演出を担当したのが、テリー伊藤。『早朝バズーカ』、『聖人ガンジーオセロの奇跡』、『失恋傷心バスツアー』、『お嬢さまを探せ』、『ボクシング予備校』など数々の名物企画を生み出したが、なかでも社会的なブームとなったのが、『ダンス甲子園』だ。
現在、日本発のプロダンスリーグ「Dリーグ」のレギュラージャッジを務めるテリー伊藤は、80年代からダンスに注目してきた。そこには彼の青春時代の記憶があった。
「僕は学生時代からダンスをやっていました。僕らのころはゴーゴーダンスとか、ツイストですよ。昔は湘南の海岸で夜に音楽を流していて、パーティーができたんですよ。ゴーゴー大会とかツイスト大会とか、そういうのに僕も出ていましたよ」
高校時代からダンスを楽しんでいたテリー伊藤。大学時代は学園闘争に参加し、テモ行進中の投石により左目を負傷。失明は免れたものの斜視になるなど、苛烈な日常を送っていたが、そんななかでも年に2回ほどダンスパーティーを主催したりして、ダンスには関わってきた。それは「ダンスに対するあこがれがあった」からだ。
その思いを抱き続けていたテリー伊藤が『ダンス甲子園』を発案したきっかけは、ある番組が発端となって起こったバンドブームだった。
「実は当時、『イカすバンド天国』という番組がはやっていました。でも実際にバンドをやるとなると、ドラムもギターもアンプもいる。練習場所も必要だし、ギターをやるには手先も起用でないといけない。高校生がバンドメンバーを集めるまで、半年とか1年はかかります。これってすごく条件が多いんですよ。
そこで考えたのがダンス。お金がなくてもできるから、高校生には合うんですよ。しかもテレビで見て自分もやりたいと思ったら、その場ですぐにできるんですよ」
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