箱根駅伝を一度も走れず......東海大の黄金世代・羽生拓矢がそれでも競技を続ける理由
東海大黄金世代は今 最終回・羽生拓矢(東海大学→トヨタ紡織)前編
東海大黄金世代――。2016年、この年の新入生には都大路1区の上位選手、關颯人、羽生拓矢、館澤亨次ら、全国区の選手が多く集まり、東海大は黄金期を迎えた。そして2019年、彼らが3年生になると悲願の箱根駅伝総合優勝を飾った。そんな黄金世代の大学時代の活躍、そして実業団に入ってからの競技生活を紐解いていく。最終回は羽生拓矢(トヨタ紡織)。
ニューイヤー駅伝を走る羽生拓矢 ©AgenceSHOTこの記事に関連する写真を見る
「誰が入ってくるとか、僕はぜんぜん気にならなかったですね」
のちに「黄金世代」と呼ばれる有力な選手たちが東海大に集まることを知っても羽生拓矢は、関心がなかった。
「こういう言い方をすると調子に乗っていると思われるかもしれないですけど、当時、僕はこの世代ではトップクラスでした。(入学予定者の)名前は聞いていましたが、いい選手が来るので、いい練習ができるなとか、強い大学になるかもと思うぐらいでした」
八千代松陰高時代、高校トップクラスの実力を持つ羽生は練習について自分の感覚で判断することが許されていた。大学では個人が優先されない部分が増えてくると想像していたが、それでも練習は自分の感覚を大事にやりたいと思っていた。だが、大学では週間の練習メニューや月間での練習内容は決められており、思った以上にチームとして動くことが多かった。羽生は、それを素直に受け入れることができなかった。
「当時の僕は、ものすごくこだわりが強くて、繊細でした。これして、あれしてみたいなこだわりが練習の中にあって、大学ではそれを崩してチームのやり方でやっていかないといけないんですが、そんな状況でもそれを貫こうとしていました。自分の感覚をすごく大事にしていたし、自分の感覚が一番正しいと思っていたんです。人の意見は受け入れたくなくて、『うるせーよ』くらいに思っていました。高校時代は感覚がよくない時は練習をしない事が許されていましたが、大学ではそれは許されないとも思っていました。だから練習をやらされているようで、抵抗感がありました」
先輩たちとぶつかることはなかったが、自分のこだわりを捨て切れず、両角速監督とは噛み合わないことが多かった。そのことに嫌気がさした羽生は「言い訳を作って監督から逃げていた」という。
1年時の出雲駅伝では鬼塚翔太、館澤亨次、關颯人が1区から3区まで担い、3位になった。東海大の1年生を各大学が警戒するようになり、全日本大学駅伝では羽生もエントリーされていた。しかし、両角監督から「今回は出場しないが、チームと一緒に動いてほしい」と言われ、それだけ羽生の名前が他大学に与えるインパクトは絶大だった。そして、關ら主力選手が調子を崩して急遽、羽生に出番が回って来た。ただ、調整不足は否めず、大学駅伝のデビュー戦は7区14位という結果に終わった。
「結果は自分のなかで受け止めていたんです。でも、終わった後、両角監督にプロセスについてではなく、レースの内容について厳しく言われて、練習を課せられました」
高校時代は監督に自分の感覚を信頼してもらい、常にコミュニケーションを取りながら二人三脚で進んで結果を出してきたが、大学では自分の考えを受け入れてもらえず競技に対する意欲が低下した。
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著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。