福士加代子が振り返る、笑顔で走り続けた23年の陸上人生「世界レベルで戦えているのが面白くて」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Naoki Nishimura/AFLO SPORT

走るのを辞める→世界へ

――入社2年目の2001年からは、3000mと5000m、1万mで日本ジュニア記録を更新し、12月の全日本実業団女子駅伝では3区で16人抜きの区間賞を獲得。ここで一気に伸びましたが、2年目の成長は予想していましたか?

「正直、入社した時は1年で辞めると思っていました。高校時代は楽しかったけど、入社してすぐに『アッ、これは楽しくないな。気持ちが持たない』と思って。案の定、半年くらいで辞めそうになりました。ワコールは正社員採用だったから、『これは就職に切り替えたほうがいいな』と思ったんです。

 でも、そう思っていたらレースで勝ち始めて、駅伝に出たら会社の人に褒められるし、いろんな大会で海外に行くということにつながっていって、『これは面白いかも』みたいになっちゃって。その連鎖が続いて04年のアテネ五輪までいっちゃいましたね。それまでは陸上をやってどうなるとも考えていなかったし、五輪へ行くことも『まさか!』としか思っていませんでした」

――入社してからも「走るのが楽しいからやる」という気持ちが強かったんですか?

「そうです。こんなに強くなると思っていなかったけど、ワコールに入って徐々にですね。チームメイトがよかったので『一緒に駅伝に出て勝ちたい』とか。大会に出ると友達も増えるので『あの人に会いたいから次の大会も行こう」とか。それに試合でも気になる人がいたら、『最後まで戦わないと仲良くなれない』と思って頑張って。それで渋井陽子さん(三井住友海上)とも、小﨑まりさん(ノーリツ)とも仲良くなって。あの人たちのエキスを全部もらいました(笑)」

――そこからはヨーロッパ遠征で3000mと5000mの日本記録を出すなど、世界と戦える選手になっていきましたよね。

「日本記録も1回目や2回目はよかったけれど、もう1回というのは苦しかったですね。それまで以上のことをやらなければいけないので。毎年『辞める、辞める』と思っていたけど、結局辞めるタイミングを見失った感じです(笑)。とにかくキツいことのほうが多かったので、最初から終わり方を考えていて、バンッといい結果を出した時に、みんなに『もうちょっとやりなよ』と言われて終わる感じがいいかなと想像していたんです。

 だから2004年のアテネ五輪は『これで決めて引退!』と思って臨んだけど、直前の足の故障でトップに2周抜かれて結果は26位。「これじゃ終われない」となって。日本記録を出したら辞められるかなとも思ったけど、今度は1万mの記録が出なかったので、そのあたりが一番苦しかったかもしれませんね。

 そこからマラソンにも挑戦したら、初レースはヘロヘロになって何回も転んでしまって。『これはやばいぞ、もう1回マラソンをやったほうがいいのかな』みたいになっていきました。そのうち辞めるとかを考えないで、『結果を残して、やれるだけやったほうがいいのかな』という気持ちに切り替えて今になりました」

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