北京五輪リレー銀メダル獲得直後、4人が感じた日本陸上「挑戦の歴史」 (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

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 そんな状態になったのは、前日の予選結果があったからだ。

 過去この種目で、日本勢が五輪や世界選手権で獲得したベストリザルトは、04年アテネ五輪の4位だった。その時の予選は5位通過で、決勝では「頑張ってどこまで順位を上げることができるか」という気持ちで臨んでいた。

 だが、この北京五輪では3位での決勝進出だった。メダル候補と目されていたアメリカやナイジェリアは、バトンがつながらずに敗退。さらに、イギリスも失格と大波乱の予選だったのだ。前年の世界選手権で日本は38秒03を出しても5位だったが、この時は、普通に走ればメダルは確実。それだけに選手たちは、予選直後から緊張感と戦わなければならなかった。

 決勝のオーダーは予選と同じく、塚原-末續-髙平-朝原という順番だった。

 当時、最年少23歳の塚原は、06年IAAFワールドカップからメンバー入りして第1走者を務めていた。北京五輪では100mで準決勝に進出したが、3本走った疲労で脚の付け根に不安が出ていたため、リレーの予選では思いきり飛び出すことができず、決勝は出場できないかもしれない、との情報もあった。

 塚原は「僕も迷惑はかけたくないと思ったけど、どこかで『俺じゃなきゃいけない』という自信もあった」と言う。ただ、「ひとつだけ後悔しているのは、末續さんに、バトンパスが詰まらないように『1足長、広げてください』と言えなかったこと。自分の動きに一瞬だけ不安がよぎった」とも言う。それでも勢いよく飛び出すと、バトンパスに詰まりながらもいい流れをつくった。

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