箱根から世界を走った「早稲田の竹澤健介」が、初めて語る引退の真相 (3ページ目)

  • 酒井政人●取材・文 text by Sakai Masato

 学生時代のキャリアと年齢を考えると、29歳で迎えた昨年のリオ五輪が最大のチャンスだったのかもしれない。しかし、悲鳴をあげる体がそれを遠ざけ、ついにはシューズを脱ぐことになった。

「やっぱりマラソンに出てみたかったですね。でも、体の状態は長い距離を走ることさえできない次元にありました。マラソンを目指してトレーニングしたことは一度もありません。

 学生時代は、若さと勢いで走ることができたと思うんです。でも、土台が固まっていない状態で積み上げていこうとしても、絶対に崩れます。いま振り返ると、理想的な走りができていたのは大学3年生の前半でした。そこから左アキレス腱を痛めて、4年生ぐらいからバランスが崩れ始めていたんだと思います。その後も、足底を痛めるなど、いろんな部位を故障しました。少しずつ、少しずつ、いろんなところが狂っていき、最後に大きなズレになってしまったのかなと感じています」

 ケガの影響で爆発力は影を潜めたものの、竹澤は大学卒業後もコンスタントに成績を残している。エスビー食品に入社して1年目に日本選手権5000mで2位に入り、翌年には同1万mで初優勝を飾っている。所属を住友電工に移した後も、本格強化を始めたばかりのチームを3年連続でニューイヤー駅伝に導くなど、中心選手として活躍。昨年の大会では、1区を区間5位と好走した。

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