【大相撲】横綱・日馬富士。「最軽量」力士に飛躍をもたらした3つの転機 (3ページ目)

  • 武田葉月●文 text&photo by Takeda Hazuki

 2008年、安馬の目の色が変わった。「大関昇進」を目標に定め、翌2009年にはついに大関昇進を決めた。同時に、現在の日馬富士に四股名を改めた。

 ところが、日馬富士はステップアップすると、足踏みするタイプのようだった。昇進から3場所目となる2009年夏場所(5月場所)こそ初の幕内優勝を果たしたものの、綱獲りのかかった翌名古屋場所(7月場所)では9勝止まり。十両昇進後と同様、その後の成績がパッとしなくなった。大関の座を守ることが精一杯という土俵が続いた。

 加えて、2010年初場所(1月場所)後、朝青龍が突然の引退に追い込まれた。誰よりも慕っていた“兄貴分”が土俵を去って、心にポッカリと穴が空いてしまった。日馬富士は完全に目標を失いかけていた。2011年名古屋場所で2度目の優勝を飾り、秋場所では2度目の綱獲りがかかっていたのだが、再び失敗した。

「早く、日馬富士が横綱に上がってくれたらいいんだけどね……」
 朝青龍が引退後、2年もの間ひとり横綱を務めてきた白鵬は、ここ数年、口癖のようにそう語っていた。

 日馬富士がチャンスをふいにしてきた理由のひとつは、体調管理だった。白鵬は、こうも嘆いていた。
「稽古熱心なのはいいんだけど、もう少しお酒を控えたほうがいいね……」

 そうこうしているうちに、把瑠都、琴奨菊、稀勢の里、鶴竜と、次々に新大関が誕生。日馬富士の存在はますます薄れ欠けていたが、2011年10月にバトトール夫人との結婚披露宴を開き、その前年に生まれた長女(ニャムジャルガルちゃん)の存在が、3度目の転機をもたらす。

 同時に、師匠の伊勢ヶ濱親方が“ここ一番”で結果が出せない日馬富士に、「『横綱を目指そう!』という気持ちを持てば、きっと横綱になれる」と説いたことが大きかった。

 これまでも、決して横綱になりたくなかったわけではないが、日馬富士はその強い気持ちを改めて胸に刻んだ。それが、「夢の実現につながるんだ」と。

 そして今年の5月、次女(ヒシゲジャルガルちゃん)の誕生がさらなる励みになって、名古屋場所で自身初の全勝優勝。続く秋場所でも全勝優勝を飾って、有無を言わさぬ結果を残して悲願の綱取りを果たした。

 133kgという体重は、来たる九州場所(11月場所)で土俵に上がる幕内力士の中では最軽量。「軽量が不安」「体が持つのか?」といった声が囁かれていることも事実だ。しかし、日馬富士はこう語る。

「体が小さくても、それをハンデだと思ったことはありません。自分の相撲を認められて横綱になったのですから、これからも武器であるスピードを生かした相撲を取っていきたい」

 頂点を極めた男は、もう立ち止まったりはしない。

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