小説『アイスリンクの導き』第1話 「リンクへ再び、天命」 (4ページ目)
「脅かすわけではない。でも、人生をかけて背負うことになるから、覚悟してね」
ドクターが「競技者を続ける代償」についてした説明は、大げさでも何でもなかった。その施術、リハビリのおかげで、至福の演技もできたから後悔はない。しかし痛みは日々の生活にあった。競技を続ける限り、それは増す一方で、限界を超えた。痛みも感じず、元どおりになったんじゃないか、という期待は都合良く拵えた幻だった。
そこで28歳の誕生日前日に、引退を発表した。
引退会見は、膝の痛みを言い訳にはしたくなくて、あっさりとしたものにした。報道陣は泣かせようという質問を浴びせてきたが、そんな余裕がないほどだった。燃え尽き、疲れ果て、その場を後にする。そんなイメージだった。やりきった、と当時は思っていた。
それ以後の自分は、抜け殻に似ている。新たに生まれ変わるつもりだったが、人生は簡単に割りきれない。
年末、全日本選手権のテレビ中継でゲストに呼ばれたことがあった。選手の生の声を伝えるリポーターの仕事がメインだった。リンクサイドで演技を見て、専門的な視点でキスアンドクライの儀式を終えた後の選手を直撃した。演技についてコメントしたり、演技後の選手の本音を引き出したり、という役目だった。
「リポーターとしてわかりやすく伝えられていたし、とてもよかったですよ!」
ディレクターには褒められたが、うまく頭を整理できず、何一つまともにできなかった。自分の感覚では、まだ氷の上に立っていたからだ。
〈自分はどちら側にいる人間か〉
その問いを突き付けられた瞬間だった。押し隠していたものが噴出していた。
目の前にあったワイングラスを手に取りかけて、立ち上がって対面式キッチンに行き、おもむろに冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターが入ったペットボトルをつかみ、キャップを開けると、一気に喉に流し込む。渇きが癒され、酔いがさめる感覚があった。
すぐにベッドに入る気分にならず、ソファに戻って腰を下ろし、テーブルの上のスマホに手を伸ばした。通信アプリには、いくつかのメッセージが入っていたが、どれもすぐに返信する必要はなさそうだった。夜の闇は深く、間接照明だけがぼんやりと光っていた。
引退から4年が経とうとしているのに、むしろリンクの外より中にいたい、という衝動を持て余していた。
新春番組企画、元スポーツ選手たちと旅をしながら、それぞれ現役時代を振り返る仕事があった。その一人に、アマチュアのヨット選手がいた。彼女は五輪でメダルも取ったにもかかわらず、メディア的にはほとんど注目はされなかったという。競技を続けること自体が大変で、個人スポンサーのおかげでどうにか続け、最後はひっそりと引退することになった。
引退後にメディア出演をするようになったほうが、生活は華やかで楽だという。しかし、彼女は言った。
「でも好きなもので生活できるのは、やっぱり幸せですよ。できる限り長く、競技を続けたい、って思っていました。メダルの可能性がなくなったら、速攻で終わり、っていうのは現実でしたが。本音を言えば、たとえ勝てなくたって、競技は楽しかったんです。風の流れを読んで、波の行方を読んで、それが当たったり、外れたり。いい勝負ができた瞬間が楽しいんですよね!」
雑談だったのか、収録だったのか、彼女の言葉に共感を覚えた。
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