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日本ボクシング世界王者列伝:セレス小林 長い下積み期間を経て王者に 勝負にしがみついた「激闘の名人」 (2ページ目)

  • 宮崎正博●文 text by Masahiro Miyazaki

【激闘の名人のように戦い抜いた】

 2000年8月、WBC世界フライ級チャンピオンのマルコム・ツニャカオ(フィリピン)に挑んだ。わずかプロ12戦目(11戦全勝7KO)でこの日のリング立ったツニャカオは、アジア一のボクシングの伝統を持つフィリピンでも史上有数とされる才能の持ち主とされた。同じサウスポーのフィリピン人に対し、小林は真っ向から立ち向かう。しかし、決定打を得られず、判定は引き分け。小林の試練の道は続くことになる。

 チャンスを求めてスーパーフライ級に階級を上げ、レオ・ガメス(ベネズエラ)の持つWBAタイトルに挑んだのは2001年3月だった。このとき、すでに37歳になっていたガメスだが、4階級制覇を達成した豪腕の持ち主だった。小林は顔面と腹に着実に巧打を打ち分けていく。とくに効果を上げたのはボディブローで、南米のベテランははっきりと動きを失っていった。10ラウンド、的確打を集めたあと、あまりに鮮やかな左ストレートのカウンター。ばったりと前のめりに倒れたガメスは立ち上がっても、その足もとは定まらないまま彷徨(さまよ)った。レフェリーはカウントを中止してストップをかける。小林の大願が成就した瞬間だった。

 小林が世界チャンピオンの座にあったのは363日。そして、この男の戦いがファンの間に長く記憶されることになったのは、残念ながら勝利という形で終わった戦いではない。そのキャリアのラストとなった2度目の防衛戦は、最強の挑戦者を相手に「壮絶」という言葉が軽々しく聞こえるほどの戦いだった。

 対戦者はアレクサンデル・ムニョス(ベネズエラ)といった。戦績は21戦オールKO勝ち。その数字と前評判だけで震え上がったものだが、公開練習を見てからはなおさらだった。しなやかな体躯から打ち込むパンチには抜き身の日本刀のギラつきに、振りかざした蛮刀の鈍い光もまた同居して見えた。

「小林はただじゃ済まないんじゃないか」。あの時、怯えきった自分自身のことをよく憶えている。

 2002年3月9日、日本武道館。小林本人には申し訳ないが、私はその無事ばかりを祈っていたように思う。

 小林はまさしく激戦の帝王のように戦った。2ラウンドにダウンを奪われながら、なおも勇敢に、だった。ボディブローで何度もムニョスを窮地に追い込む。5ラウンド以降は毎ラウンド、ダウンを喫する苦闘にもかかわらず、倒されるたびに立ち上がっては反撃に打って出る。二番手集団からスタートし、アイデアを尽くし、努力を重ねてつかんだ世界の頂点を簡単に投げ出すわけにはいかない。

 どこまでも勝負にしがみつくのも、チャンピオンの責任。そんなメッセージがリングの中には、無限の数までこぼれていた。だが、限界はある。8ラウンド、小林はついに力尽きる。

 激しく傷ついたのは明らかだったが、小林は用意された担架を断り、自分の足で歩いて帰った。それも、世界一の男としての矜持だった。

●Profile
せれす・こばやし/1973年2月27日生まれ、茨城県岩井市(現坂東市)出身。本名は小林昭司。1992年にプロデビュー。日本フライ級王座に2度挑戦するも失敗、1998年にスズキ・カバト(新日本大阪)との3度目の対決に勝ち、日本王者に。この王座を4度防衛後、世界挑戦に挑む。世界初挑戦は引き分けに終わったが、2001年、スーパーフライ級に上げてWBA王者レオ・ガメス(ベネズエラ)に挑戦し、鮮やかなTKO勝ちでついに宿願を果たした。2度目の防衛に失敗して引退。その後、千葉県柏市にセレス・ボクシングジムを設立。岩佐亮佑をIBF世界スーパーバンタム級王者に育てている。現在、日本プロボクシング協会の会長でもある。戦績は32戦24勝(14KO)5敗3分。

著者プロフィール

  • 宮崎正博

    宮崎正博 (みやざき・まさひろ)

    20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

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