井上尚弥「誰も辿り着けない領域へ」 決戦を前に、あくなきボクシングへの探求心 (2ページ目)

  • 本間 暁●取材・文 text by Homma Akira
  • 山口裕朗●撮影photo by Yamaguchi Hiroaki

【スパーで見せた野獣性と冷静さ】

 太田光亮トレーナーにしっかり丁寧にバンデージを巻いてもらう30分弱。取材者の質問に真摯に耳を傾け、どんなに抽象的な物言いをも瞬時に解釈し、期待以上の彼なりのオリジナルの言葉を返してくる。真剣な眼差しから、さわやかな笑顔まで表情も実に豊か。そうして、するりとトレーニングに入っていく。かつてのように、スイッチが切り替わる音は聞こえない。

 いつ見ても美しいシャドーボクシングを経て、1週間前にメキシコから来日したクリスチャン・クルス(26歳=フェザー級。21勝11KO6敗)、ホセ・サラス・レイジェス(21歳=スーパーバンタム級。14勝10 KO無敗)と4ラウンドずつのスパーリングを開始する。

 元IBF世界フェザー級王者のクリストバルを父に持つクルスは、左構え右構えの両方をこなすスイッチボクサー。だが、仮想タパレスの役割があるためにサウスポーで通す。背格好も左右スイングから左ストレートを差し込むタイミング等、スタイルもタパレスにとてもよく似ている。尚弥の強打を浴びると、怯むどころかお返しとばかりに猛然と打つ。尚弥も敢えて足を止めて荒々しく打ちかかる。もの凄い打撃音と両者の息遣いが響き渡る。パンチばかりか体もぶつけ合い、密着させ、相手の隙を窺い合ってふたたび強打を振りかざし合う。

 試合では打たせず打つ完璧な姿しか披露しない"モンスター"。だが、その実、内面に脈々と熱く流れている野獣性が余すことなくさらけ出される。渾身のパワーをこめて左フック、右スイングをぶん回し、普段は決して見せないバランスの乱れも生じる。調整段階の中で、疲労が溜まっている時期ということも重なってのことだが、それにしても、ド迫力のスリリングな攻防だ。

 5ラウンド目から代わったレイジェスは、長身のボクサータイプだ。それまでは前傾姿勢で戦っていた尚弥も、一転してアップライトに構え直し、リズムを整えてフットワークを使う。リングを縦横無尽に動き回り、自らロープを背負ってレイジェスを誘い、左フック、右ショートのカウンターを叩き込む。そしてまた、軽快なステップワークを披露する。

 こうして心と体のバランスを整えて、クルスとの一戦との調合を図っているように思えた。

 大打撃戦モードから、テクニカルなやり取りに切り替える。言葉にしたり頭で考えたりすることは簡単だが、実際に体現するとなると、ことはそう単純に運ばない。技術戦から打ち合いへ──の流れは往々にしてあるが、その逆は滅多にできることではない。ボクサー、ボクシング経験者、"通"の方ならこの意味がおわかりだろう。かつての尚弥もこのモードチェンジはそうそうできなかった。けれど、現在の彼はこれを実にスムーズにこなす。ボクシングの「強さ」「巧さ」だけでない。完璧に自らの心をコントロールする術を心得ているからこそ、できる芸当だ。ここに井上尚弥の今の強さがある。

「タパレスは、足は止まっているけれど、ボディワークでかわす選手。距離が近いからといって強打を打っていったら......そこに落とし穴が待っているパターンがあるのかな、と。意外に小さなテクニックをたくさん持っている選手ですし。だから、今回(のポイント)はそこ、かなって思います。案外、技術戦になるかもしれません」

 自らの、そしてタパレスの心をも操り、「強さ」でも「巧さ」でも上回る──。今回もまた、"井上尚弥のボクシング"が全開となる予感しかない。

井上は、強さが増すほど内面の変化も見られる井上は、強さが増すほど内面の変化も見られるこの記事に関連する写真を見る

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る