「チケット持ってますか」の屈辱が、
「有刺鉄線デスマッチ」を生んだ
【大仁田厚の邪道なレスラー人生(2)】
苦難の末にデスマッチ路線を打ち出した大仁田厚
前回も話しましたが、1985年の1月3日、オレは左ヒザのケガが原因で全日本プロレスを引退しました。
1974年4月にデビューした後楽園ホールで引退式をやってもらって、師匠のジャイアント馬場さんから、リング上で餞別の30万円をいただきました。そして花道を通って控室に戻る途中で、馬場さんの奥さんである元子さんが、涙を流して抱きしめてくれたのを覚えています。
16歳でデビューしてから10年あまり。27歳になってもプロレスしか知らなかったですから、リングから去る寂しさを感じながら駐車場に着いたときには、体の中を風が通り抜けたような感覚がありました。全身が抜け殻になったようなあの気持ちは、今も忘れられません。
引退後は芸能界で活動しようと思い、幸い、日本テレビの深夜番組「11PM」でレギュラー出演が決まったり、ドラマに出たりもしました。ただ、プロレスの世界では知名度があっても、芸能界は別世界。まったく売れないまま飲食業に手を出し、最初の店こそ軌道に乗ったんですが、店舗を増やしたことがアダになって半年で全部つぶれました。
他にも不動産業みたいなこともやったけど、すべてうまくいかず、定職がなくて道路工事の現場で働くなどして食いつなぐしかありませんでした。そんなとき・・・・・・あれは稲城の駅前でしたかね。雨の中で道路に穴を掘っていたら、中学生ぐらいの少年が「大仁田さんでしょ。サインください」って頼んできて。オレはその色紙を受け取って、"元NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級チャンピオン"って書いてしまったんです。「もうプロレスには戻らない」と心にフタをしたのに、サインにレスラー時代の肩書を書いてしまうオレはなんなんだと、自分が許せませんでした。
「今のままじゃダメだ」と、アルバイト生活を終わらせるために履歴書を作って会社を回りました。でも、中卒のオレは、学歴を書く欄がたった2行で終わってしまうんですよ。そんな男を採用してくれる会社はありませんでしたね。
新宿の会社で面接を終えた後、駅のホームのベンチに座って缶コーヒーを飲んでいたときに、今の惨めさや情けなさ、そしてプロレスへの想いなどが、グチャグチャになって込み上げてきました。同時にオレの中でパタンって音がして、「そんなにやりたいならプロレスやってみろよ」となって。もう1回リングに上がることを決意したんです。
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