【国際プロレス伝】短パンの太ももパンパン、グレート草津の付け人に (3ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 1964年度シーズン終了後、八幡製鉄を退職。そして1965年7月30日、日本プロレス入りした草津は当初ジャイアント馬場の付け人となり、1966年3月21日に本間和夫戦でデビューを果たすも、ほどなくして退団した。

 その後、吉原功のもと、アメリカのリングで活躍していたヒロ・マツダ、彼の東京・日体荏原(えばら)高校時代の後輩であるマティ鈴木、東京オリンピックにレスリング・グレコローマンスタイル最重量級代表として出場した杉山恒治(サンダー杉山)らとともに「国際プロレス」を旗揚げ。浜口が入門したころ、グレート草津はストロング小林、サンダー杉山、ラッシャー木村と並ぶ「四天王」のひとりとして、押しも押されもせぬ国際プロレスの看板スターだった。

「何をやってもすごかったですよ。ラグビーで鍛えていたからパワーはスゴいし、スタミナがあってタフでした。ラグビーというのは『走る格闘技』でしょ。走っていたから、とにかく下半身が強いし、スピードがありました」

 草津はフォワードながら、100mを11秒2で走る快足の持ち主。バックス並みのスピードとパワーを武器に、ボールを持って突進しては相手をなぎ倒し、グラウンドを縦横無尽に駆け回っていた。

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