亜久里の3位と、モレノの涙。苦労人たちの1990年日本GP表彰台 (2ページ目)

  • 米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki
  • photo by Getty Images

 亜久里は走り慣れた鈴鹿でスタート直後から豪快な走りを見せ、7周目のメインストレートでは芝生にタイヤを落としながらも2コーナーでインに飛び込んでロータスのデレック・ワーウィックをオーバーテイクし、6位に浮上。マンセルのリタイアで5位に上がると、2台のウイリアムズをファステストラップを記録しながら追いかけ、彼らのピットストップの間に逆転するなど、実力で3位までポジションを上げていった。

 最後は14万の大観衆からの声援と、打ち振られる日の丸に囲まれながら、ソフトタイヤを履いて追いすがるウイリアムズ勢を寄せつけることなく3位でフィニッシュ。さすがの亜久里も、ヘルメットのなかで涙が止まらなかったという。

 端整な顔立ちとサバサバした性格でスターダムにのし上がった亜久里だが、そのレースキャリアは順風満帆だったわけではない。むしろF3でなかなか王座に手が届かず、2度のランキング2位を経験しながらも8年間を過ごし、活動資金が底を突いて何度も引退を考えたことがあるなど、苦難に満ちたものだった。

 しかし、そのたびに支援者に恵まれ、ニッサンの開発ドライバーからグループC、そして全日本F3000(現在のスーパーフォーミュラに相当)へとステップアップを果たし、F3デビューから11年目にしてついにF1への道が開けた。

 だが、そのF1でも初年度は戦闘力の乏しいマシンで予備予選すら突破ならず、屈辱を味わった。そんな波瀾万丈のキャリアの末に辿り着いた、F1の表彰台だったのだ。

 亜久里がどんなに苦境に立たされようとも華々しい舞台に立ち続けてこられたのは、彼への支援を惜しまない人々がいたからだ。もっと言えば、彼には人を惹きつけてやまない人間としての圧倒的な魅力があったからだ。

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