ウクライナの兵士として戦い、サッカーの現場に戻ってきた記者の壮絶な2年半 ユーロ取材と戦場での悲痛な想い (3ページ目)
【除隊後も簡単ではなかった】
彼は私のもっと近しい親友のひとりだった。妻と5歳の息子と、平和で幸福な日々を送っていただけの一般市民だ。そんな心優しい親友を、多くの人々が現代では起こり得ないと考えていた無慈悲な戦争で失ってしまった。
そんな悲劇が起きた2023年9月13日から、私の心が痛まない日はない。ユーロ2024ドイツ大会の取材に来るまで、毎週日曜日にはセルヒーの兄アントンと墓参りをした。親友の優しい笑顔を思い出すたびに、なぜロシアがこんなにひどい殺戮を始めたのか、なぜ一部の国はこれに加担したり、容認したりするのかを自問せずにはいられない。
私はおよそ1年間、軍に従事したあと、戦闘で負った複数のケガにより、満足な働きができなくなったため、除隊した。
ただし、戦地から普段の生活に戻ることも、簡単ではなかった。なによりもまず、ドンバスに残してきた同胞たちのことを想ってしまうからだ。彼らはやむにやまれず銃を取り、運が悪ければ、命を落とすことになる。キーウの自宅にいると、突如として自らに激しい怒りを覚えることがある。仲間たちはまだあの骨まで冷え込む塹壕で死の恐怖と隣り合わせでいるというのに、自分は比較的安全な場所で暖かい生活を送っている――そんな自身を強烈に嫌悪してしまうのだ。
だが、家族や友人のおかげで、自らを保つことができている。彼らの愛やサポートがなければ、とっくに精神に異常をきたしていただろう。
親友のアントンがいてくれることも大きい。彼は弟の死のあと、すぐに除隊することもできたが、自らの意志で戦地に半年間残り、最後は懇願する両親のために帰還した。共通の大切な人を失った私たちは今、共に支え合って生きている。
大好きな仕事に戻れたことも、支えになっている。率直に言って、もう以前ほど熱狂を感じられなくなってしまっているのは事実だが。
だからウクライナ代表がユーロ2024の予選を突破し、UEFAからドイツでの現地取材のオファーを受けた時も、すぐには「イエス」と言わなかった。ロシアの全面侵攻が始まった時、この戦争が終わるまで、私はウクライナ国外に出ないと決めていたのだ。けれど、周囲のサポートや励ましもあり、これは代表チームと私だけではなく、ウクライナ国民にとっても特別な機会だと捉えられるようになり、公式メディアに携わるひとりとしてドイツへ行くことにした。私にとって、これが4度目のユーロ取材だった。
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