2020.11.20

奥寺康彦が語るドイツでの日本人評価の現状「活躍できると見られていない」

  • 篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko
  • photo by Getty Images

――優勝した時のケルンの街はどんな雰囲気でした?

「それはもうお祭り状態でしたよ。市庁舎からオープンカーにみんなで乗ってパレードしました。メイン通りを通ってクラブハウスまで行くんですけど、沿道にはもうすごい人だかりで。あんなにサポーターが喜んでくれる姿を見るのが初めてだったので、本当にびっくりしましたね。

 日本も野球ではそういう光景があったかもしれないけど、サッカーでこんな光景あり得なかった。僕らはこの人たちの代表として戦っているんだなと実感できた瞬間でしたね」

――シャーレも掲げました?

「もちろん掲げましたよ。市庁舎のバルコニーに選手たちが上がって、下の広場には赤い旗 (ケルンのクラブカラー)を振っているサポーターがぎっしりと集まっているんですよ。そのサポーターの前で掲げさせてもらいました」

<ウイングからサイドバックへコンバート>

――そして3シーズン目が終わる間際に、バイスバイラー監督がニューヨーク・コスモス(アメリカ)に引き抜かれました。次のカールハインツ・ヘダゴット監督が就任してから出場機会がなくなってしまいましたね。

「当時外国人枠は2つしかなくて、今のEU圏というのもなかったので、構想外になりました。僕はそれまでレギュラーでそれなりに結果も出していたんですけど、ヘダゴット監督は別の選手を使いましたね」

――ただ、そのヘダゴット監督もシーズン途中に解任されて、次がオランダ代表の監督としても有名なリヌス・ミケルスが就任しました。

「オランダが1974年のワールドカップで準優勝した時の監督ですね。これが厳しい人でした。監督が変わって僕にもチャンスが来るかなと思ったんだけど、余計に僕のことは使わなかったですね。そこで僕もプロなので、監督に自分は必要なのか聞きに行きましたよ。そこであんまりいい返事をもらえなかったので、クラブに移籍を申し出ました。それで当時2部のヘルタ・ベルリンが呼んでくれたんです」