酔っ払いながらゴール。ペレよりも多く5000得点した破格のストライカー (2ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by Getty Images

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 公式戦の得点数は762ゴールだが、親善試合などを合わせると1468ゴールではないかとされている。1シーズンのハイアベレージは24試合で57得点。27年間のキャリアで得点王12回、1934~44年は5年連続でヨーロッパの最多得点者だった。ハットトリックは数知れず、1試合7得点が3回ある。5000点はともかく、1000点は確実に超えていて、1468ゴールが正しければペレをも超えている。

 愛称はペピ。破格というより波乱のフットボーラーだった。

<100m10秒8の韋駄天ストライカー>

 ボヘミア人の父、チェコ人の母、"ペピ"・ビカンはオーストリアのウィーンで生まれた。フットボーラーだった父親は、試合で腎臓を蹴られたのがもとで30歳の若さで他界。ペピはその時まだ8歳だった。母親は食堂で働き、貧しい一家を支えた。12歳でヘルタ・ウィーンのユースチームでプレーを始めると、試合で得点するたびに小銭をもらっていたという。

 靴が買えず、裸足でプレーしていた少年時代に卓越したボール感覚を身につけ、100mを10秒8で駆け抜けた。五輪のスプリンター並のタイムである。18歳で首都最大のクラブであるラピド・ウィーンと契約する。

 ラピド・ウィーンでの4シーズンで49試合出場、52ゴール。1934年イタリアワールドカップでオーストリア代表としてプレーしている。当時のオーストリアは「ヴンダーチーム」(奇跡のチーム)と呼ばれた最強クラスのナショナルチームで、この大会はベスト4だった。

 1937年にチェコスロバキアのスラビア・プラハへ移籍。217試合で395ゴール。この時期がペピの全盛期だろう。母親の国であるチェコスロバキアの国籍を申請して受理されたが、手続きが遅れて1938年のフランスワールドカップにはチェコスロバキア代表として出場できなかった。

 第二次世界大戦が終わるや、ヨーロッパの名だたるクラブからオファーが来ている。イタリアのユベントスは破格の条件を提示してきたが、ペピはプラハにとどまった。どうもイタリアが共産主義になるらしいという噂を信じたらしい。ところが、皮肉なことに共産化したのはイタリアではなくチェコスロバキアのほうだった。

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