セレソンの呪い? ブラジル代表歴代主将を次々に襲う不運と不幸の連鎖 (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳translation by Tonegawa Akiko

 アゼルバイジャンの代表監督を務めていた時には、イングランド代表のマイケル・オーウェンについて「プレーの前に、まず話し方を習うべきだ」と言ってイギリスの新聞の一面を飾った。2006年のW杯予選のアゼルバイジャン戦を前に、オーウェンが「5点は軽くいける」と発言したからだ。

 トーレスはまた、政府とも戦った。多くの選手が引退後貧困に苦しんでいるのを知って、選手に年金を払うように訴えたのだ。その主張がすべて受け入れられたわけではないが、それでもいくばくかの金が選手に払われるようになった。2016年に亡くなるまで、彼はある意味でキャプテンであった。

 1982年スペインW杯のセレソンはブラジルに夢を見させた。「黄金のカルテット」と呼ばれたソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、ジーコ、ファルカンの4人がおりなす中盤は見事なプレーを見せたが、イタリアに2-3で敗れ、夢は破れた。

 この時のキャプテンはソクラテス。当時、医者の資格を持つ唯一のサッカー選手だった。おそらくサッカー史上でもまれに見るインテリだろう。医者だけでなく、政治家、作家、歌手、俳優、大学教授、サッカー指導者としても活動。つまり天才だった。だが、そんなソクラテスは2011年、57歳の若さで亡くなった。大量の飲酒と喫煙が影響したと言われている。

 1994年アメリカW杯、1998年フランスW杯でキャプテンを務めたのはドゥンガだ。ドゥンガはブラジルのみならず、ドイツでも、イタリアでも、そして日本でもスターだった。しかし同時に、ブラジル代表キャプテンの不運というテーマを最も体現している選手かもしれない。

 アメリカW杯でブラジルは、ロベルト・バッジョのイタリアを決勝で破り、世界王者に復活した。フランスW杯でも、ブラジルはいいプレーを見せて決勝にたどり着く。ドゥンガはその経験とカリスマ性でチームをリードしていた。しかし、決勝のフランス戦で事件は起きた。

 試合前、チームのエース、ロナウドが体調を崩して病院へ行き、監督のマリオ・ザガロは彼の代わりにエジムンドをスタメンに入れた。だが、試合開始45分前になってロナウドがスタジアムに姿を現し、「プレーさせてほしい」と懇願する。結局、エジムンドはベンチに戻り、ロナウドがピッチに入った。

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