横浜フリューゲルスでの日々を振り返るセザール・サンパイオ「僕らが築いた友情は永遠のもの」 (2ページ目)
【忘れられない天皇杯決勝】
──日本の生活はどうでしたか?
「最初は僕らブラジル人選手が3人いて、家族ぐるみで一緒に助け合えたのがよかったね。大家族のような雰囲気で過ごしたのは、人生のなかでもひと味違う、楽しい経験だったよ。その後、エバイールとジーニョは帰国したんだけど、それはそれで悪くなかった。僕もひとりになったことで、もっと日本の習慣を身につけよう、コミュニケーションを取ろうと頑張れた。
日本人は引っ込み思案な人が多いよね。最初は誰も、僕に話しかけてこなかった。僕も日本人がみんな同じ顔に見えて、名前と顔が一致するまでに半年もかかってしまったけど(笑)。ただ、日本の人たちはいったん信頼したら、その信頼は揺るぎないものになる。そうやって、僕らはお互いに心を開いていったんだ」
──フリューゲルスで特に記憶に残っている試合はありますか?
「僕の人生のなかでも忘れられない試合がある。1999年1月1日の天皇杯決勝だ。元日にファイナルで勝って優勝したのに、その翌日にクラブの全員が職を失ったんだ。クラブが消滅してしまったからね......」
──その決勝にいたるまでの、フリューゲルスでの最後の2カ月を振り返ってもらえますか?
「ある日(1998年10月29日)、普段どおりに練習に行ったら、クラブに大勢の報道陣がいて、初めて知らされたんだ。チームの消滅が決まったことを。
もうパニックだよ。それからは、ただ抗議のために日々を過ごした。抗議の意志を表すために、スポンサーである航空会社の利用を拒否してライバル会社の飛行機で遠征したり、選手は全員、黒いスーツとネクタイを身につけたり、試合前の集合写真で腕組みをして胸にあるスポンサーの名前を隠したり。親会社の経営の問題だから、そんなことをしても意味がないとわかっていた。でも、僕らはチームを終わらせたくない一心で、思いつくかぎりのことをしたんだ。
同時に、移籍先の決まらない選手も多かったから、苛立ちから選手同士の言い合いが始まったり、練習中に投げやりなプレーをしたり、日々の練習も難しくなっていた。それで、選手みんなで話し合ったんだ。『ここでケガでもしたら、次のクラブを見つけることさえ難しくなってしまうから、落ち着こう』と」
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