サッカー日本代表は誰が監督でも予選突破は確実 史上最強なのに面白く見えない理由 (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki

【采配や戦術を語ることが無意味に】

 実際、今回の予選はアウェー戦のテレビ中継がなく、視聴は配信サービスのみだというのに、それさえ大きな騒ぎになっていない。配信サービスの契約者は十万人単位だろう。フル観戦派はごく少数だ。その他の大多数のファンは、得点シーン等のダイジェスト版の視聴で済ませていることになる。それで事足りてしまっている。新規のファンは獲得しにくい状況だ。普及発展は望みにくくなるばかりである。

試合後、バーレーンのドラガン・タライッチ監督と握手する森保一日本代表監督 photo by Fujita Masato試合後、バーレーンのドラガン・タライッチ監督と握手する森保一日本代表監督 photo by Fujita Masatoこの記事に関連する写真を見る 代表監督への関心も薄れるばかりだ。代表チームの主役は「○○ジャパン」という言い回しからもわかるとおり監督だ。サッカーは個人データが少ない競技なので、選手の優劣、つまり選手の取捨選択は監督の主観に委ねられる。

 サッカーゲームの戦い方についても同様だ。監督の志向と深い関係がある。誰を代表監督に据えるかは、その国のサッカー界の将来を左右する大きな問題である。にもかかわらず、森保采配はいま一切、話題になっていない。更迭論は言うに及ばず、である。

 シビアな戦いではないからだ。誰が監督でも勝てる。予選を突破できる。この現実がいま白日のもとに晒されている状態だ。本来、注目に値する森保式3バック=3-4-2-1もさして話題になっていない。相手との戦力差、駒の力が違いすぎて、監督采配や戦術を語ることが無意味になっているのだ。

 三笘薫や堂安律をウイングバックで使えば、相手ボールに転じたとき、彼らは最終ラインに取り込まれる。その回数や時間は相手の力量に比例する。実際、中国戦よりバーレーン戦のほうが、その頻度は多かった。バーレーン戦の前半、日本の得点が上田綺世の決めたPKによる1ゴールに終わった理由でもある。相手ゴールからはるか遠い自軍の最終ライン付近でプレーする三笘は、ドリブルが得意なあの三笘ではない。三笘が三笘でなくなる時間は長かった。

 それは、相手にとって恐い三笘ではない、ということだ。その時間をいかに長く保つか。相手のベンチはまずそれを考える。

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