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稲本潤一が振り返る日韓W杯のチーム内事情。中田英寿との関係性や「ピカイチ」と絶賛した選手との連係 (3ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • photo by AFLO

 もちろん、僕らから行けば普通に話してくれましたし、さすがにイジることまではできなかったですけど、たしか『ワールドカップが終わったらどこかに連れて行ってくださいよ』とお願いしたような......。実際に連れて行ってくれたかは覚えてないですけど(笑)、僕ら世代からすれば"よき兄貴分"的な存在でしたよ」

---- プレーヤーとしてはどう感じていましたか。

「当時はイタリアでバリバリやってましたからね。何よりプレーが力強かったですし、一番頼りになる存在だったと思います。たとえ劣勢でもヒデさんがボールを持てば、何かしてくれるだろうという感じはありましたね」

---- FWに目を向けると、柳沢敦選手(鹿島)は稲本選手にとってのベストパートナーと言える存在でした。

「ヤナギさんとのコンビで、けっこう点を取りましたね。ワールドカップの2得点もヤナギさんのアシストですから。動き出しのタイミングがいいので、僕もパスを出しやすかったですし、逆にパスを返してくれるタイミングも抜群にうまかった。

 本当に周りをよく見ているんですよ。味方の位置と相手の位置を見極めて、絶妙なところに走り出す。その位置取りとタイミングが完璧で、自分が点を獲るだけじゃなく、周りを生かすプレーもピカイチでしたね」

---- ベルギー戦の"つま先ゴール"で脚光を浴びた鈴木隆行選手(鹿島)については?

「隆行さんはガツガツというプレースタイルで、とにかく闘ってくれる選手でしたね。身体を張ってキープしてくれるので、僕も前に行きやすかったですよ。

 ベルギー戦の前まではなかなか点が獲れていなかったけど、あの場面で点を獲れたのは、大舞台でも揺らぐことのない闘争心だったり、気持ちの強さがあったからだと思います」

---- フィリップ・トルシエ監督についても聞かせてください。稲本選手のキャリアのなかでも、かなりインパクトのあった監督だと思いますが。

「過去の代表を振り返っても、3世代の監督を同時に務めたのはトルシエさんしかいないと思いますが、僕はそのすべてに入らせてもらいました。トルシエさんじゃなかったら、もしかしたら代表に入っていなかったかもしれないですし、2002年のワールドカップの舞台に立てなかった可能性もあります。

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