稲本潤一が明かす、ドイツW杯と南アフリカW杯は何が違ったのか

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第11回
なぜ「史上最強」チームは崩壊したのか~稲本潤一(3)

 2006年ドイツW杯、日本は初戦のオーストラリア戦でまさかの逆転負けを喫した。グループリーグ突破のためには、2戦目のクロアチア戦は、絶対に勝たなければいけない試合だった。

 前半は0-0。ハーフタイム、稲本潤一はジーコ監督に呼ばれて、後半からの出場を指示された。

「『やっと(出番が)来たか』って感じやったし、『やろう!』と思っていた。今までの気持ちをぶつけられるチャンスやなって思っていた」

 しかし後半も、両チームともに決め手を欠いて、0-0のまま試合が終わった。

 その結果が示す意味は、試合後にうなだれた選手たちの姿から、誰もが容易に理解できた。勝ち点1を得て、グループリーグ突破の可能性は残したが、最終戦の相手は"世界王者"のブラジルだ。その相手に2点差以上の差をつけて勝たなければいけないことは、最高難度のタスクだった。

 ブラジル戦、稲本にようやくスタメンの座が回ってきた。

「まあ、試合に出られたのはよかったけど、試合はどうにもならんかった。(日本が)先制したけど、すぐにブラジルにひっくり返されて、ボコボコにやられた(結果は1-4)。本気になった時のブラジルの、ホンマの強さを痛感し、(日本との)力の差を思い知らされた」

 日本は、1分2敗でグループリーグ敗退が決定した。「史上最強」とうたわれ、大きな期待を集めたチームは、1勝もできぬまま、ドイツW杯の舞台から去ることになった。

「うっ憤がたまったまま(大会が)終わってしまい、(自分が)何もできずに終わった悔しさはあった。でも、それも一瞬やったと思う。日本に帰る時には、次のW杯へ(気持ちは)向いていた」

 大会後、稲本はトルコリーグへの挑戦を決めた。そこから約1年、稲本は日本代表からも離れ、静かに時間が過ぎていった。

 ドイツW杯から4年後、稲本は南アフリカW杯に挑む、岡田武史監督率いる日本代表メンバーに招集された。メンバーには"第3GK"でチームキャプテンという、チームのまとめ役を任された川口能活も選出された。W杯経験のある稲本は、自らも川口と同様の役割を求められてこのチームに呼ばれた、という意識があったと言う。

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