2013.10.23

93年のドーハ。DF勝矢寿延を奮い立たせた「ふたり」とは?

  • 渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya
  • photo by AFLO

悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――勝矢寿延


1993年10月に行なわれたアメリカW杯アジア最終予選。慣れないポジションで奮闘していた日本代表選手がいた。勝矢寿延。本来センターバックの男が、負傷の都並敏史に代わって左サイドバックを任されたのだ。周囲からは不安を囁かれていたが、勝矢はそうした雑音を吹き飛ばす活躍を見せ、日本の勝利に貢献した。そして、その舞台裏ではそんな勝矢を支えていた「ふたり」の存在があった――。

同い年のあいつとは昔から
不思議な”縁”があった

 勝矢寿延(横浜マリノス/現セレッソ大阪スカウト)は、そもそもセンターバックの選手である。右サイドバックをこなすこともあるが、強靭な体躯(たいく)を武器とした対人プレイの強さが売りだ。

都並敏史に代わって、左サイドバックを務めた勝矢寿延(中央)。左はGK松永成立、右はDF井原正巳。 そんな彼が、1993年のアメリカW杯アジア最終予選(カタール・ドーハ)では、左サイドバックとして3試合に出場した。オフトジャパン不動の左サイドバック、都並敏史(ヴェルディ川崎/現解説者)がJリーグで左足首を亀裂骨折。メンバーには名を連ねていたものの、試合に出場することが不可能だったからだ。最初の2戦こそ、三浦泰年(清水エスパルス/現東京ヴェルディ監督)が出場したが、守備の強化を図るために、3戦目からは勝矢が都並の代役を務めた。

 勝矢が都並の代役を務めるのは、実はそれが初めてではなかった。

「都並とは同い年(1961年生まれ)で、ユース代表のときに初めて一緒にプレイしました。その後、都並は日本代表入りして、1985年のメキシコW杯予選では、すでにレギュラーとして活躍していました。その最中、都並が警告の累積で試合に出られなくなったことがあったんです。そのとき、代わりに呼ばれたのが、僕でした。今思えば、都並が累積警告にならなければ、僕が代表に選ばれることはなかったかもしれないですし、初代表が都並の代わりで、(ドーハで戦った)自分にとって最後の代表でも、都並の代わりに試合に出場した。あいつとは、なんか不思議な”縁”を感じますね」

 とはいえ、勝矢が代表で左サイドバックをやったのは、初代表で試合に出場したときだけ(1985年9月22日vs香港。メキシコW杯アジア2次予選)。以降は、本職のセンターバック、もしくは右サイドバックしかやってこなかった。ゆえに、オフトジャパンでも、勝矢はセンターバックか、右サイドバックの控えだった。

 事態が変わったのは、アメリカW杯アジア最終予選を1カ月後に控えた、1993年9月のスペイン合宿だった。最初の練習試合で左サイドバックを務めたのは、新たに招集された江尻篤彦(ジェフユナイテッド市原/現ジェフユナイテッド千葉コーチ)だったが、前半が終了したハーフタイム、アップをしている控え選手のところに清雲栄純コーチがやってきて、勝矢を呼んだ。

「勝矢、(後半から)行くぞ!」

 その言葉に、勝矢は驚いた。センターバックは安定している。右サイドバックの堀池巧(エスパルス/現解説者)の調子も悪くない。自分がどこのポジションに代わって入るのか、わからなかったからだ。