【プロ野球】大洋監督・近藤貞雄に「リリーフは無理」「二度と使わん」と酷評された齊藤明雄が語る感謝「もう1年、やってもよかった」 (2ページ目)
「だから、近藤さんが偉いのは、失敗しようが打たれようが、本人にはまったく何も言わなかったことです。誰かを通じて言わせることもしなかった。そのあたりは、選手の使い方がうまかったなあと思います。逆に、僕ら選手からすれば、近藤さんはやりやすい監督でした。僕が直接注意されたのは、『あんまり初球に緩いカーブを投げるな。リリーフピッチャーが』って言われたことくらいです」
【自身2度目の最優秀救援投手に】
齊藤の持ち球のなかでも特徴的だったのが、曲がりの大きいカーブ。それを痛打されるケースが目立ったため、1986年の開幕前に行なわれた投手ミーティングで、「あれは投げるな」と監督命令が出た。代わりに低めに小さく曲がるカーブを覚えたが、バッターによっては大きいカーブを投げる時があり、そのたびに注意されたのだった。
「普通、初球は打ってこないので、遊び球として投げていたんです。それを打たれると、『投げるな』と。一度、打たれてベンチに戻った時には、『投げんな言うたろ!』って怒られましたけど、僕が『はい〜』って返事をしてベンチ裏に行けば、もうその場で終わりです。あとから呼ばれて何か言われることもなかったですし、そのうち、打たれないかぎりは何も言われなくなりました。信頼されていたのかどうかは、わからないですけどね」
近藤の監督就任2年目となった1986年は、抑えの齊藤につなぐ中継ぎとして、門田富昭、堀井幹夫の登板機会が増えた。前年に比べれば、現在でいう「セットアッパー」の役割が明確になり、継投の形が固まりつつあった。
「そうですよ。門田さんと堀井がワンセットでしたね。近藤さんが監督就任1年目で投手陣の力量を見極めて、2年目にそれぞれの役割を決めた、という感じでした。当時は中継ぎも完全な1イニング限定ではなく、イニングの途中から登板することも多かったですけど、今につながる分業制は確立されていたと思います。極端に言えば、『先発は6回まで頑張ればいい』という考え方です。そこは今と一緒ですよね」
1985年の齊藤は55試合に登板し、9勝5敗18セーブ、109回2/3を投げて防御率2.13。それが翌1986年には44試合の登板で5勝6敗23セーブ、78回を投げて防御率1.85。抑えとしての安定感は増し、自身2度目となる最優秀救援投手に輝いた。
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