巨人OB清水隆行が振り返る厳しかった学生時代「打席に立つのが怖いんです」 (2ページ目)
【厳しいなかで学んだこと】
吉田 そんな厳しいなか、やめたいなと思いながらも浦和学院、そして東洋大を選んだ理由は? 相当厳しい学校ですよ。
清水 浦和学院にお世話になったのは、中学時代の仲間たちが多く進学していたからです。判断基準としては、それが一番大きかったです。
甲子園っていうのも、そんなにイメージはなかったんですけど、僕の四つ上の先輩に鈴木健さんという方がいて、浦和学院で甲子園に出て活躍をされて、その姿を見ていたのでイメージはあったんですけど、一番はやっぱり仲のいい仲間たちがそこに進んだっていうことですね。
吉田 そこから東洋大学に入られましたよね。僕もセレクションに行ったことあるんですよ。
清水 そうなんですか。鶴ヶ島ですか?
吉田 そうです。行きました。1泊2日でした。
清水 僕らもそうだったんじゃないかな。1泊した記憶があります。東洋大の印象はいかがでした?
吉田 僕は「入学やめよう」って思いました(笑)。高校3年生も集まれって言われて立たされて、その日、新人戦か何かがあったらしくて、1年生が2年生、3年生に報告するような場があったんです。
立ちながらそれを聞いていて、「嘘だろ。大学行ってもまたこれかよ」と思いました。高校3年生って一番自由な時代じゃないですか。
清水 そこからまたですもんね。
吉田 そうです。だから丁重にお断りして、佛教大学に獲ってもらったっていう感じでした。
清水 ちょっとピリピリしていましたよね。今は絶対違いますよ。これは本当に言わないと、いろいろ問題になりますから(笑)。
吉田 東洋大学の思い出話を聞かせてもらってもいいですか?
清水 もう30年以上前の話ですね。僕、今年52歳になるので、それを前提条件として理解していただかないと。今は絶対違うんです。これは何回も言っておかないと、どこでどうなるかわからない時代ですから(笑)。
吉田 何人ぐらい入部したんですか?
清水 1学年40人ぐらいですね。
吉田 上下関係はどういう感じだったんですか?
清水 どこでもあると思うんですけど、1年生が部屋の掃除をしたり、道具を磨いたり、洗濯をしたりといったことをしていました。当時は大変でしたが、そういうことを覚えられたのは、よかったかなと思います。
吉田 監督さんは相当厳しい方でしたよね。高橋昭雄監督ですか?
清水 監督にはすごくお世話になりました。もう亡くなられてしまったんですけど、本当に厳しかったです。野球もそうですが、それ以外の部分も。大変だったけど、今思えばインパクトのある時間でした。いい思い出だったなとは思いますけど、当時はやっぱり大変でした。
練習も厳しくて長かったし、「やらなきゃいけない」というプレッシャーも常にありました。言葉遣いや返事、話を聞く態度も厳しく見られていました。ちょっと気を抜いたような返事や、足を開いて話を聞いていたら「なんだ?」ってなりますから、ビシッとしていないといけない。
吉田 ある意味、当たり前のことが当たり前のようにできないとダメだと。
清水 そうですね。「お前聞いてんのか?」って話になってしまうので。
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