権藤博は大魔神・佐々木主浩につなぐまでの「中継ぎローテーション」を確立し、横浜を38年ぶり日本一へと導いた
セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
権藤博が明かす1イニング限定の守護神が誕生するまで(後編)
前編:権藤博は近鉄の投手コーチ時代に監督の仰木彬と対立はこちら>>
1997年、権藤博は横浜(現・DeNA)のバッテリーチーフコーチに就任した。当時の監督である大矢明彦は、バッテリーコーチから昇格して2年目。現役時代は長くヤクルトの正捕手を務めて優勝経験もあり、93年からのコーチ時代には谷繁元信を一人前の捕手に育て上げていた。
それまで投手の起用法をめぐって、仕えた監督と衝突しがちだった権藤。担当コーチとして、主力投手をつぶさず、若い投手を育てていく──。そのために「こうしましょう」と進言しても、なかなか受け入れられなかった。はたして、自身より9歳下の指揮官との関係性はどうだったのか。御年85歳の権藤に聞く。
98年、抑えの佐々木主浩(写真左)を中心に強力リリーフ陣を完成させ横浜を日本一に導いた権藤博 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【投手コーチから監督へ】
「大矢は何も言わなかったです。任せるというか、私に敬意を表したんじゃないですか。年齢も私より若いですし。それに、ベイスターズは最初のスタートでつまずいて弱かった。『もう思い切ってやりましょう』って言ったら、『そうしましょう』と。それで『よし、これいきましょう。これいきましょう』って言っている間に、ふたりでできあがってうまくいきましたね」
97年の横浜は4月に8勝14敗と負け越し、最下位からスタートした。それでも、抑えの佐々木主浩が盤石の投手陣。先発は野村弘樹を軸に三浦大輔、戸叶尚が成長し、ドラフト1位新人の川村丈夫も即戦力で機能。中距離打者でつなぐ"マシンガン打線"と噛み合い、8月に20勝6敗と快進撃を見せる。一時は首位のヤクルトに迫りつつ、7年ぶりのAクラスとなる2位に浮上した。
「たしかにかなり追い上げましたけど、所詮は2ゲーム差まで迫っただけで、チーム力もいっぱいいっぱいでしたからね。結局は大差をつけられて負けているわけですし、優勝したヤクルトを冷やかすぐらいが精一杯でした。だから次の年ですよ。監督になった時、これなら戦えると思いました」
10月6日、2年契約満了に伴い、大矢は監督を退任。その後、後任が決まらないまま秋季練習に入ると、同25日、権藤の監督就任が発表された。ほかの監督候補の名前も挙がっていたから意外だったというが、11月に入ると権藤自ら戦力補強に動く。
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著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など