江川卓のストレートを篠塚和典は「マシンで170キロに設定した球筋に似ている」と言った
連載 怪物・江川卓伝〜安打製造機・篠塚和典を育てた2本のヒット(後編)
前編:「江川卓と高校時代に対戦した篠塚和典はショックを受けた」はこちら>>
篠塚和典にとって高校1年春に江川卓と対戦できたことは、のちのプロ野球人生に大きな影響を与えた。
「江川さん以上の速い球は、プロでも見たことがない」
そう堂々と公言する篠塚は、高校時代の江川と対戦したおかげで、中日の小松辰雄、大洋(現・DeAN)の遠藤一彦、広島の大野豊といったセ・リーグを代表する速球派の投手に対しても、気後れせずに打席に入ることができた。
江川と対戦できたことでスピードに対する恐怖心がなくなり、自分のタイミングでアジャストすることだけに集中して打席に立つようになった。
首位打者を2回獲得するなど、安打製造機と呼ばれた篠塚和典 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【セカンドから見た江川卓のピッチング】
プロ4年目の1979年に一軍定着した篠塚は、81年に正真正銘のレギュラーとなった。
「80年はシピンが腰を故障し、代わりに出たっていう感じだったから。81年も最初はベンチスタート。5月のゴールデンウィークからだね、試合に出るようになったのは。そもそもこの81年というのは、伊東キャンプの成果が出たよね。79年のオフに伊東キャンプをやって、80年は徐々にその成果が出始めて、本当の意味で力を存分に発揮したのが81年の日本一になった年だった」
伝説とも言える伊東キャンプで、篠塚は朝から晩まで泥だらけになって猛練習に励んだ。心身ともにたくましくなった篠塚は、81年の開幕からしばらくは新人の原辰徳にセカンドのポジションを奪われたが、5月早々、中畑清のケガにより原がサードへコンバート。それにより篠塚がセカンドに入り、スタメンで起用されるようになった。
プロ入り後は、江川と同じチームのために対戦する機会はなかったが、紅白戦などで打席に立ったことがあるか尋ねると、「一度くらいはあったと思いますよ」と篠塚は答えた。
「それがほとんど記憶にないんですよね。記憶にないってことは、江川さんにとっては肩ならしだということ」
そしてセカンドのポジションから見た江川について聞くと、こんな答えが返ってきた。
「セカンドの守備位置から見ると、球筋がすごくよくわかるんです。ギアを入れて投げたかどうかもわかります。こっちはギアを入れようが入れまいが、守備に対する意識は変わりません。いつ打球が飛んでくるかわからないから、常に集中していました」
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著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。