元オリックス藤井康雄は「勉強は嫌い、殴られるのも嫌」で、憧れだったプリンスホテルにまさかの入部を果たした (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

「たしかに、1期生の高校生は僕らより2つ上の先輩ですけど、その方たちはほとんど練習の手伝いをしているようでした。それで2期生は高校生がいなくて、僕ら3期生の時に方針が変わったんですね。石山さんによれば、ちゃんと勝てるチームにするために、素材のいい高校生を採用して育てるということになったそうです」

 3期生は大学生が投手の吉田幸夫(青山学院大)、外野手の村中秀人(東海大)という2名だけで、高校生が10名。藤井のほか、「テルシー」と呼ばれた大型右腕の中島輝士(柳川高/元日本ハム)、「奈良のドカベン」と呼ばれた強打者の荒竹幸博(平安高)が目立つ存在だったが、別の意味で目立つ選手が3名いた。

【普通ではない野球環境】

 石毛が西武に1位、中尾が中日に1位で指名された80年のドラフト。投手の高山郁夫(秋田商高/元西武ほか)は日本ハムから1位、川村一明(松商学園高/元西武ほか)は阪急(現オリックス)から1位、そして捕手の瀬戸山満年(中京高)は巨人から4位で指名されるも、それぞれ入団を拒否。そのうえで3名ともプリンスに入社したため、同じ企業グループの西武へ入団させるためかと疑われたのだ。

「プロの1位指名を蹴るってなかなかないし、しかも3人とも同じ会社に入る。まず、そんなことってないわけです。そのあたり、西武の監督で編成の仕事もしていた根本陸夫さんがからんでいたと思いますよ。とくに高山には『ちょっと、ここにおれ』という感じだったのかなと。ただ、これは僕個人の意見ですけど、そういうこともあってのプリンスだったと思うんです」

 現役引退後にオリックスでスカウト、編成も務めた藤井だけに、「球界の寝技師」と呼ばれた根本の裏技も、今では客観視できる。だが、多少なりともプロを意識してプリンスに入った藤井自身、逆にプロの誘いを断った同期の連中は特異な存在と感じられたようだ。では、普通ではない野球環境のなか、いかに打撃の技術を磨いていったのか。

「当時の社会人は高校と同じ金属バットでしたから、迷いなく順応できて、フリー打撃などでは大学出の先輩たちにも負けないぐらいの飛距離は出ていました。ただ、実戦形式の練習になると変化球が打てなくて。最初の2年間ほど、対外試合には出られなかったんです」

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