2095安打も打ちながらタイトルも表彰もゼロ。プロ野球のミステリー
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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第27回 松原誠・後編
日頃、目にすることの少ない「昭和プロ野球人」の知られざる過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る人気シリーズ。1962年に埼玉の飯能高校から捕手として大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団した松原誠さんは、当時の三原脩監督にバッティングセンスを買われて一塁手へのコンバートを命じられた。
一塁守備の猛特訓を受け、チーム事情から三塁手もこなした松原さんは、プロの速球への対応に苦しみながらも、5年目の66年頃から打撃の才能を開花させ、20年の現役生活で2095安打を積み重ねる。しかし、これほどの強打者でありながら獲得タイトルも表彰もゼロ。そこには常に立ちはだかる"巨大な壁"の存在があった。
大洋の主砲・松原誠にはこのユニフォームがよく似合う(写真・岡沢克郎/アフロ)
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「高校時代から変化球を打つのはうまかった」と言う松原さんだが、プロ入り後しばらくは伸び悩んだ。すると1965年オフ、三原監督が岩本堯(たかし)打撃コーチに「2年で4番を打てるようにしろ」と厳命。マンツーマン指導の成果で、67年には14本塁打、68年には28本塁打と数字を伸ばしていく。
本塁打数が30の大台に乗った70年は、打率.281。プロ入り以来最高となるリーグ5位の打率を残した。その間、外国人選手の都合により三塁を守ることも多かったが、71年からはほとんどの試合で一塁に戻ると、助っ人のクリート・ボイヤーが三塁に入った72年から一塁に固定されている。それだけ守りのポジションが流動的だった松原さんだが、着実に打つほうの数字を上げてなおかつ安定した成績を残していた。
「成績を残せたのも打撃のヒントをくれた人がいたからで、ものすごく印象に残ってます。例えば、調子が悪いとき、田宮さんに会って『どこが悪い?』って聞いたら、『ピッチャー側に動き過ぎてる。頭はあんまり動かさないで、もう少し待てばボールも見える』って教えられて、その日から速球を打てるようになった。それと、青田さんにはインコースの打ち方を教わったんです」
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