根本陸夫が常勝・西武を築いた手法とは。メジャー評論家・福島良一が聞いた「独自の組織論」の全貌 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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 福島は当時の西武が獲った外国人選手に着目していた。87年途中に来日し、88年に38本塁打、90打点を記録したタイラー・リー・バンバークレオ(登録名はバークレオ)。89年の来日1年目から32本塁打を放ち、90年から3年連続本塁打王、2年連続打点王に輝いたオレステス・デストラーデ。投手では91年からプレーした右腕のレイモンド・ヤング。いずれも20代と若く、メジャー経験ゼロ、もしくは実績が乏しい選手だった。

「とくにヤングですね。メジャー経験はなくても、アメリカの『ベースボール・アメリカ』という専門誌が出しているプロスペクト・ブック、若手有望株の名鑑に載っていたような選手を獲ったんです。つまり将来有望な、明日のスター選手ですね。

 今では時代が変わって、育成選手枠で外国人を獲るようになりました。でも、今から30年ほど前の日本球界、そういう外国人選手を獲ることはまったくと言っていいぐらいなかったわけです。根本さんのチームづくりはすごいなと思いましたし、先見の明があったんじゃないかと思いますよ」

 もっとも、西武がスタートした当初、監督と編成を兼務する根本の方針は違っていた。80年途中にスティーブ・オンティベロス、81年開幕前にテリー・ウィットフィールドと、いずれもメジャーで実績ある強打者を獲得し、打線の中軸に据えた。後任監督の広岡達朗もその起用を踏襲し、82年からの日本シリーズ連覇につなげた。根本は福島にこう説明している。

「最初は、ひとつの骨格をつくるために、それに必要な年齢とか技術を考えて採ってきました。今は自分のところのチームの体質に合うかどうかで、日本人と外人を分ける考え方をしていません。日本でのスカウティングと同じような考え方に切り替えたんです」

西武の組織全体がスカウティング部

 ならば、「日本でのスカウティング」はどうだったのか。「西武の成功のカギのひとつは、スカウト組織の充実によっていい選手を発掘できたことでは?」と福島が尋ねると、根本は次のように答えた。

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