阪神の編成部長となった根本陸夫信者の最初の大仕事は「24人戦力外」の血の入れ替えだった (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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「ダイエーからコーチの話が来てるんです。どうしたらいいですか?」

「やめとけ! そんなとこ行くな! おまえが田淵のとこ行ったってしょうがないやろ。このまま西武におったらええやん。もし辞めるんやったら、どっか新聞、紹介してやる。評論家で」

「いやぁ......でも、もう長く関東で生活してますから、一回、関西に行かせてください」

「関西と違う、福岡やないか......。そうか、ほんじゃあ、何で行くんや?」

「ホークスは古巣ですから。行かせてください」

「よし、わかった。じゃあ行ってこい。何かあったらすぐ電話しろ」

 黒田へのホークス復帰要請は、じつは初めてではなかった。82年オフ、南海監督に就任が決まった穴吹義雄が、「黒田を返してくれませんか?」と打診してきた。根本はすぐに断った。この経緯を事後に伝えられた黒田は驚き、なぜ自分に相談してくれなかったのかと意見したが、結局は「このまま、ずっと西武におれ」と言われて納得するしかなかった。

「ちょうど優勝して、シーズンが終わった時です。この経験は根本さんのおかげやと思ってましたから、それ以上は何も言えません。でも、その時から10年近くが経っていた。だいたい、根本さんにはいつも『こうやれよ』『こうしろよ』と言われてましたけど、それは『自分で決めろよ』という意味なんです。だからこの時も僕、相談する前に自分で決めていました」

 90年、黒田はダイエーのヘッドコーチに就任した。同年は最下位に終わり、戦力不足を痛感すると、根本にトレードを申し込んだ。これは成立しなかったが、困ったことがあれば、他球団といえども相談の電話を入れた。「そんな簡単なことで、なに考えとんねん!」とよく怒られた。

 翌91年、チームは浮上できず5位に終わる。そのなかで黒田は「監督とヘッドが大学の先輩・後輩関係だと周りのコーチの迷惑なのでは?」と感じ、退団を決意する。あと1年の契約があり、球団から編成として残るよう慰留されたが、自分で決めて根本の自宅に向かった。

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