阪神の編成部長となった根本陸夫信者の最初の大仕事は「24人戦力外」の血の入れ替えだった

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第30回
証言者・黒田正宏(4)

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 新たに森祇晶が監督に就任した1986年、西武はリーグ連覇を果たし、日本シリーズでは広島と8試合を戦って4勝3敗1分で栄冠に輝く。同年から88年までリーグ3連覇、3年連続日本一を達成して、「常勝軍団」と呼ぶにふさわしいチームとなった。

 翌89年はパ・リーグ相手5球団の監督が企図した"西武包囲網"にも遭い、最終的に近鉄、オリックスとの三つ巴から抜け出せずに3位に終わったものの、優勝した近鉄とは0.5ゲーム差で戦力は充実していた。そんななか、西武の作戦兼バッテリーコーチを務める黒田正宏はひとつの思いに至り、球団管理部長の根本陸夫に相談を持ちかけることになる。

2001年12月に阪神の監督になった星野仙一(写真左)のもと編成部長として活躍した黒田正宏2001年12月に阪神の監督になった星野仙一(写真左)のもと編成部長として活躍した黒田正宏 南海(現・ソフトバンク)から82年に西武へ移籍した黒田は、根本とは旧知の間柄で、法政大の先輩・後輩の関係でもあった。自宅から至近の根本家にしばしば招かれ、コーチ就任後は事細かに教育され、薫陶を受けた。のちに「根本信者」と呼ばれるほどの信奉者となり、何事に対しても根本に相談していたのだが、その時は退団の意向を打ち明けるつもりだった。

 89年のシーズンオフ。黒田の目は古巣に向けられていた。前年に球団がダイエー(現・ソフトバンク)に身売りされ、本拠地が福岡に移転したホークスから誘いを受けた。おりしも、他球団への移籍を考えていた時だった。背景には何があったのか、黒田に聞く。

「長いこと西武にお世話になって、リーグ優勝6回、日本一にも5回なったから、ぼつぼつ違うところでも......と思っていたんです。そしたらダイエーから話があって。球団代表の岩谷(堯)さんを前からよく知っていたのと、球団社長の鵜木(洋二)さんが法政大の柔道部で先輩でした。『じゃあ、行こうかな』と思って、根本さんに相談したんです」

 黒田自身、球団オーナーの中内功とも以前から接点があった。一方でそのオフ、チームの監督が杉浦忠から田淵幸一に交替。黒田にとって田淵は法政大の1年先輩で、西武でも3年間ともに戦っている。当然、根本もよく知る野球人だから、理解してくれるものと思っていた。

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