「ポスト野村克也」と称された男は「根本信者」となり、阪神の編成トップへと上りつめた (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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 黒田自身、大学の後輩だから呼ばれたとも思わなかった。学歴や学閥にかかわらず、根本が縁を大切にしていることが伝わってきたからだ。となると、なぜ呼ばれたのか見当もつかない。だからといって、20歳以上も年上の大先輩に理由を聞くなんて失礼じゃないか......。そう思いながらも3人で楽しく話すなか、根本からある助言を受けた。

「人生のことについてですね。簡単に人についていって、飲み歩いて、ご馳走になってはいけないということです。しっかり自制して、自分で食べに行きなさいって、よう言われました。そういったことで野球がダメにならないように頑張れと」

 プロ野球選手には、その地位を利用としようと企みを持った人間が寄ってくることもある。いわゆる"タニマチ"をつくらないよう、根本は選手に対して「タダ酒を飲むな」「ごっちゃんになるな」と厳重に通達していた。監督時代はもとより、フロント入りしてからもそうだった。とくに、ドラフト上位で入団し、高額な契約金を得た新人には個別に伝えることもあった。

 黒田に対しては、球界の表も裏も熟知した人間としての助言であり、激励だったのだろう。そのアマチュア時代の実績と野球環境、プロ入り後の境遇を踏まえれば、現役時代は控え捕手だった根本が「頑張れ」と励ましたこともうなずける。ここで黒田の球歴を詳(つまび)らかにしておきたい。

 姫路南高では甲子園出場こそなかったが、3年時の1965年、兵庫県選抜メンバーに捕手として選出。来日したハワイ高校選抜チームと対戦し、育英高の鈴木啓示とバッテリーを組んだ。鈴木は同年の第1回ドラフトで近鉄から1位指名されて入団。黒田も阪急(現・オリックス)から10位で指名されている。

「高校生やから、親が球団の人と話しますよね。それでうちの親父が阪急のチーフスカウトと会ったようで、帰ってくるなり『オレより給料ええから行け!』と言われました。でも、自分は大学で野球をしたかった。関西をはじめ、ほかの大学からも誘いをいただいたんやけど、東京六大学でやりたいなと思って」

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